私は、3歳下の妹がいる。妹が生まれてから、私たちは親に比べられて過ごしてきた。とは言っても、比べられてあれこれ言われるのは大概妹の方だった。なぜなら、学校の勉強自体は私のほうが取り組みがよく、成績もいろいろと言われない程度にはできていたからだ。
しかし、私は比べられることが嫌だった。妹が可哀そうとか、庇おうとかそういうのではない。比べられることで私の中に着々と、劣等感と焦燥感が募っていたのだ。
妹と比べられることが日常化し、気づけば自分も他人と比較するように
比べられていることが当たり前になったことで、いつの間にか私は心の中で自分自身とほかの人の比較をするようになっていた。もともと自己肯定感が高いわけではない私は、自己と他人の比較でもマイナス面ばかりが目につき、それが劣等感へとつながっていた。そしてなぜか、自己との比較対象の最たるものも、”妹”になっていた。
さて、自分を他人と比較する、ということは時におごった見方をし、自分を貶めることにもなる。自分を自分で肯定できない私は、他人より勝っている部分にだけ目を向けて、自ら卑しい存在に成り下がっていることもある。上には上がいるように、下には下がいる。自分が卑しくなってしまえば、そこからはもう止まらない。自分より劣っていると感じる部分を見つけた人には表面は取り繕えど徹底的に見下すようになる。それだけで私は救われたような気持ちになっていたし、そこに安心して私は成長の足を止めてしまっていた。それが、自己否定と相まった同族嫌悪のような醜い感情だとも気づかずに。
人と比較ばかりしていた私が、唯一見下さずライバルや目標と思えた妹
そんな私にとって、唯一見下すこともなく、永遠のライバルとなり得、目標とすることもできた存在、それが妹だった。親の言いなりになる傾向の強かった私たちは、ほとんどの習い事を同時期に、同じものを始めていた。同じ習い事をしていると、時に、妹と対戦することもある。年が若いほど上達が早いとはよく言ったもので、センスが良いのもあってか妹のほうがぐんぐんと上達し、年齢差による元々私が持っていたポテンシャルなど瞬く間に埋められてしまった。それゆえに私は妹に負けることもあった。
私の最初の敗北は、中学2年の時である。それは交流大会で、年齢関係なく、子どもという括りで競っていた。それまでは年齢も低く、学業も劣る、という目で妹を見ていた私は、彼女を見下し続けることのできるよう、それが覆されることのないよう、同じ土俵に立つのを避けていた。それゆえに、この敗北は私にとって天地がひっくり返されたかのようであったし、くだらないちっぽけなプライドもズタズタにされ、とてつもない屈辱を味わわされた。
妹に敗北した経験が私を変え、悪い面だけでなくいい面も見るように
しかし、この出来事は私の”妹観”を変え、自分の卑しさを身に染みて実感することになった。そこから彼女は比べる対象ではあるものの、蔑むのではなく、ともに成長することのできる、ライバルとして見れるようになった。と、同時に、私は彼女のようになりたいと思うこともある。彼女は自分のやりたいことをしっかりと主張でき、自分の夢を持っている。そんな彼女が羨ましい。きっと私もできるのだろう。だって、私も同じ環境で育ってきたのだから。
いまだに私は、他人と自分を比較する。でも、前と変わったのは、悪い面だけでなく良い面も見るようになったところ。まだまだ、自分自身の良いところを見るのは難しい。もちろん、卑屈にもなる。でも、自分を根本から肯定してあげられるのは自分だけだし、いずれはちゃんと認めてあげられるようになりたい。自分のやりたいことも、自ずと見つかるようになるだろう。私はいまだに妹という目標を心に置いたまま、私は私の良いところを見て、明るい自分を見つけたい。永遠の心の戦友よ、これからも、よろしく。