人類が、超個人プレーの群れない生き物だったら、私たちが日常的に使う“ふつう”という言葉の魔力はこれほど活躍しないはずだ。
“ふつう”とは、社会という群れを維持するために生まれた、大きな意志のかたまりだと思う。慣習や大多数の考えで縛らないでほしいと、生きづらさを抱えたマイノリティー側の人たちは、社会に認められる権利があると手を挙げ、少しずつ“ふつう”の引き出しを増やそうとしてる。
今でこそ話題にこと欠かないジェンダーや結婚観…諸々。しかし、世の中には人知れず“ふつう”と孤独に闘う人々が一体どれほどいるだろうか。きっと誰しもが多種多様な理由で、重さの大小あれど周りと違うことに抑圧され、苦しさや寂しさを抱えてるのかもしれない。
社会に認められると人からの視線や態度だけでなく、法的にも守ってもらえる。今回の私のケースは、そのもっと前の段階。最初の一歩を踏み出すはなし。
周りの友達とは違って、私は幼少期から「ヤングケアラー」だった
私は幼少期から、学業の傍ら家族の世話や介護をするヤングケアラーだった。家庭環境うんぬんの流れで、高校卒業と同時に就職も出来ず、祖父母の介護をすることになる。
友達が大学に進学したり、就職したりする中で、一人黙々と介護の日々。ご飯やおむつ、病院の付き添いから事務手続きまで、床ずれ防止のため夜中に一度は起床して寝返りさせる。
当初は、友達とたまに行く食事がとても楽しみだった。同年代の子とする年相応の会話。だけど月日が立つにつれて、いつ終わるか分からない介護、自分の将来が見えない不安と焦りで神経過敏になっていった。
友達に相談はできなかった。共感ではなく、同情を呼ぶと思ったから。友達と同等の立場でいたかったのだ。みんなの職場の愚痴や恋バナ、旅行の話、全て自分とは無縁の世界で、気付けば友達に会うことをやめていた。群れることのできない一匹狼、社会的弱者だと思い知らされた。
今思えば本当に失礼なことだが、近所の奥さま方とする井戸端会議が一番しっくりきたのが何よりショックだった。還暦を過ぎ、人生の酸いも甘いも経験した女性と“同じ介護の悩み”を抱えている。
決して華美な日々を望んだわけじゃない。ただ、みんなと同じ“ふつう”の10代を過ごしたかった。
ふつうではない状況の自分と、付き合うしかなかった私が思うこと
あれから10年経ち、28歳になった。思いがけず“ふつう”とは、少し離れた暮らしをしてきた私が思うこと。
問題に直面している間は、とにかく苦しみきるしかない。ひとしずくの勇気と共にどん底へ落ちよう。
「生きてればなんとかなる」とはよく言ったもので、私の場合は日にち薬しか効果がなかった。“ふつう”ではない状況に置かれた自分と付き合い続けるしかなかった。
そうしてどうにか生きながらえて、何年か経った頃、ようやく自分のことが少し誇らしく思えるようになっていた。擦り減らしていたはずの自尊心も、いつの間にか帰ってきた。おかえりなさい。
自分や他人の中に潜む「ふつう」の概念なん棄ててしまえば良い
人と違う考え、人と違う生き方をしている。ただそれだけのことだと気付くまで、すごく時間がかかってしまった。どんな生き方を選んでも、自分だけの経験値は溜まるのだ。とんでもないお宝だ。
周囲や社会に対して、“ふつう”以外のものを受け入れさせるには、途方もない時間と労力がかかる。
葛藤の末、はじめの一歩として、私は自分のあるがままの姿を許せるようになった。他人や自分の中に潜む“ふつう”という概念なんて、丸めてゴミ箱に棄ててしまえば良い。ニュートラルな精神で立っている今の私は、自分至上一番かっこいい。