「お母さんへ、わたしを産んでくれてありがとう。大好き」

小学生の頃も、大人になった今も、母にどうしても伝えられない言葉。
クラスの子たちは何てことなく伝えられるようなことが、わたしは伝えられなかった。

素気ないことを書いたのは、母に対するわたしなりの反抗だった

小学校低学年の頃、学級通信に載せるために、お母さんへの感謝の言葉を書くように、と担任の先生に言われたけれど、

「いつも家事をしてくれてありがとう」

みたいに素気のないことしか書かなかった。

後日、学級通信が配られると、母はわたしのメッセージを見て物凄く怒った。

「他の子は『産んでくれてありがとう』とか『お母さんの子供で幸せです』とか感動的なことを書いてるのに、なんであんたはこうなの!!恥ずかしいじゃない!!」

その時わたしは何も言わなかったけど、これは母に対するわたしなりの反抗だった。

母への感謝の言葉を言ったら、母に負けてしまうような気持ちだった

小学生くらいの頃から、うちの「しつけ」が他の家の子と違うことは、薄々気がついていた。
友達のお母さんは、皆すごく優しそうで、
「こんな子どもいらない、あんたなんか産まなきゃよかった」とか言ったり、
わたしの頭を掴んで床を引きずり回したり、
真冬に外に追い出したりする人は居ないように思えた。

他の家では軽い注意で済むようなことでも、人格を否定されたし、叩かれた。
でも絶対に母の前では泣きたくなくて、何をされてもじっとりと母のことを睨んでいた。

本当は一人で毎晩枕が冷たくなるくらい泣いていたけれど。

お母さんはわたしに「あんたなんか産まなきゃ良かった」って言うけど、わたしだって好きで産まれてきたわけじゃない、とずっと思っていたし、当時のわたしは、母のもとに生を受けた喜びなんて微塵も感じていなかった。

だから、わたしはクラスメートがしたみたいな母への感謝の言葉は言いたくなかったし、言ったら母に負けてしまうような気持ちだった。

母親への感謝や愛情を表現している人たちが、羨ましくて妬ましい

今ではわたしも大人になったし、母も歳をとったから、昔みたいに殴られることもない。
むしろ、親子の仲は悪くない。休日に一緒に出かけたり、母の日にプレゼントを贈ったりもする。

わたしも母も、昔のことなんて全く気にしていないふりをして、何事もなかったかのように過ごしている。

だけど時々、母親への感謝や尊敬、愛情をあまりにもストレートに表現している人を見ると、胸が苦しくなる。わたしができないことをいとも簡単にやってのける人たちが羨ましくて、妬ましくて、何より自分が情けなく、惨めに思えるから。

仕事をしながら家事をして、2人の子供を育てるということが、どれ程大変なことか、今なら想像することができるけれど、あの頃のことは、やっぱり許せはしない。
どんなに時間が経ったとしても許そうとは思わない。

だから、今わたしが言いたいのは、
「産んでくれてありがとう」でも、
「お母さんの子供でよかった」でもなく、

「一生許せないし、忘れない。でも愛している」

なのかもしれない。愛なんてまだよく分からないけど。

幼いころに母に付けられた傷が完全に消えてなくなることはないし、積年の恨みを言い出せばキリがない。

それでもわたしは母が死んでしまった日には一人で枕を濡らすんだと思う。