私の仕事は、早朝4時30分からはじまる。でも、私は朝が苦手だ。

この仕事に就いてから、丸7年が経つけれど、いまだに家をでる15分前まで寝ている。それから飛び起きるように布団からでて、身支度を整え、毎日同じ時間に家をでていく。

そんなギリギリのルーティンなので、私は前日のうちに翌日に着る洋服を用意してから寝る。その参考のために、ネットで天気予報はよく確認するけれど、考えてみると、私がいま意識してメディアと接する時間はそれくらいかもしれない。

新聞の番組表を確認する習慣がなくなり、テレビと疎遠になった

私は、普段テレビ番組をあまり観ない。夜10時には寝てしまうので、それ以降にはじまるドラマや、バラエティ番組はまず観られない。たとえ録画したところですぐには観ないし、なおかつ観たかった番組でさえ見逃すほどテレビに興味がない。

我が家で新聞を定期購読していた頃は、ほぼ毎日テレビ番組表を確認して、その日に放送される番組を把握していたけれど、1年ほど前にやめてからはその習慣もなくなった。何も確認する手段は新聞に限らないのに、それ以来番組表を確認しなくなった私は、なんとなくテレビと疎遠になってしまった。

おかげで話題になっている人物や流行についても、だいぶ疎くなったように思う。たまに家族と一緒に番組を観ているとき、画面に映るものの名前を聞かれても答えられないことが増えた。学生だった10年前なら、とても簡単に答えられていた質問なのに。

それゆえ、私は予報を確認するついでに、気が向いたときにだけネットニュースを確認する。でも、天気を確認するだけのメディアで、報道されている人物やものごとについて見聞きしたところで、私にはよくわからない。だから、いつも見出しだけをひと通り見て、その日に起こったできごとを知った気になって満足し、記事の本文を読むことはほとんどない。よくわからないものに対して、深く興味を持ちづらいからだ。

葬儀場でのインタビュー映像を観るたびに「もやもや」する

そんな私でさえ、メディアへのもやもやを感じるのは、有名人の訃報がテレビで流れたときだ。特にここ数年は幼い頃から知っている有名人の訃報を耳にすることが増え、この気持ちはさらに強くなった。

このご時世でその機会も減ったが、以前は葬儀場にまで報道陣が足を運び、参列者にインタビューを行っていた。もちろん本人の同意があってこそだと思うけれど、その様子を観るたびに私はもやもやしていた。

私だって、これまでに祖父母など身近なひとの死を経験して、それがどんなことなのかを知っている。だからこそ、 亡くなったひとが自分にとってどんな存在だったのかと問うのは、とても無粋だ。大切な存在だったからこそ、悲しくて泣いているのにと思ってしまう。もし、私がインタビューされる立場なら、大切な存在であればあるほど何も聞かずにそっとしておいてほしいと思うだろう。

そして、亡くなったひとにまつわる思い出をひとりで思いだして、静かに感傷に浸りながら泣きたい。メディアが報道するのはそのひとが亡くなった理由だけで十分だ。

ときに私が求めている以上の「情報」を一方的に与えられている…

いまメディアには、溢れそうなほどたくさんの情報があって、ときに私が求めている以上の情報が、一方的に与えられていると感じるときがしばしばある。

例えば、有名人がブログで書いた日常生活での些細なできごとが、ネットニュースの見出しになっているのを見たときもそうだ。そのひとが朝ごはんに何を食べ、何を着てでかけるかは自由であって、そこまでメディアが干渉する必要はないと思う。

何事においても過不足なく与え、受取ることは難しいと理解はしている。それでも私は、ほしいときにほしいぶんだけの情報を得られる世界を夢見てしまう。そして、メディアへのもやもやがなくなる日が、やってくることを心のどこかで願っている。