2020年は残念ながら、たくさんの著名人が、不慮の死を遂げた年になった。世間を騒がすウイルスと、誹謗中傷の影響が大きいのだろう。亡くなった人のニュースは、ただでさえ暗い気持ちになるけれど、私をさらに憂鬱にさせるもやもやが、いつもセットになっている。

どうして亡くなった人に対して、残された人がコメントをしなくてはいけないんだろう。

同級生の死 みんながSNSに投稿する中、私はただ言葉を失っていた

高校三年生のとき、同級生が亡くなった。「不慮の事故だ」と先生は言っていたが、彼女が使っている駅の近くで、同じ日に若い女性の自殺と見られる、人身事故があったらしい。

彼女は、一年生のときに同じクラスで、入学後はじめて話しかけてくれた子だった。自分自身は格別仲がよかったとは言えない。けれど彼女の幼馴染や親友も、私はよく知っていた。

黙祷をした日の夜、同級生はSNSで、思い思いの言葉をぶつけていた。

「いやだ、うそでしょ、帰ってきて」
「早すぎるよね、信じられない」
「卒業式では、あの子の名前を呼んでくれるといいな」
「私たちは待っているから、いつでも帰ってきてね」

いろいろな言葉があった。本気で悲しんでいる子もいれば、それに乗じてなにかしら言おうとしている子もいたと思う。でも私はなにも言葉にできず、そっとSNSを閉じた。

そんなぐちゃぐちゃな気持ちや、心から悲しむ人の気持ちを考えていなさそうなポエム、どうしてSNSに書き込むんだろう。そう考えていたら、自分が彼女の死に悲しんでいるのか、驚いているのか、怒っているのか、わからなくなってしまった。

SNSでの追悼は、「冷たい」と思われないための自衛になってない?

著名人の訃報も同じではないか。SNSを見ると、たくさんの人が、思い思いのことを言っている。一枚だけ手元にあったツーショットとともに、「優しい人でした」と投稿する芸能人。写真を投稿し、好きなドラマを上げて、もう一度演技が観たいと嘆くファン。タイムラインが、亡くなった人の話題で埋まる。ポエムみたいにきれいすぎる追悼文は、高く評価される。「あの人は亡くなったんだ」と嫌でも認識するし、彼女を思い出してしまう。

私はSNSに思いを吐きだす人が、悪いと言うつもりはない。高校生のころはわからなかったけれど、身近な同級生の死に驚いていて、気持ちを整理したかった子もいたのだろう。亡くなった著名人に対し、メディアで涙を流しながら語ったり、ネットに長い文章を発表したりするのも、一緒かもしれない。

だけど、言葉にしたくない人もいるだろう。「親友だった〇〇さんが亡くなってから、△△さんは一週間ほどSNSに投稿をしていない」というニュースを見た。「お辛いですよね」「頑張ってください」とコメントを送っている人もいるが、ちょっと軽率なんじゃないかと考えてしまう。

みんな、マイクを向けられている気分になっているんじゃないだろうか。亡くなった著名人の家族や、親しかった人たちが「亡くなった〇〇さんに、どのような言葉を送りたいですか?」とマイクを向けられているように。そしてみんな、気持ちを言葉にしないと冷たい人だ、亡くなった人に無関心だと思われると、怯えているのだ。

その追悼番組は誰のため? 生きている私たちをおざなりにしないで

残酷なことだが、いくら亡くなった人に言葉を送ったって、届かない。それよりも悲しみを前にして、今生きている人の心に寄り添った方がいいんじゃないだろうか。

身近な人が亡くなったら、当然悲しい。その気持ちを整理するには、さまざまな方法があると思う。言葉にする、作品や思い出に触れる、そういうことをせず、時間に身をまかせる。「こうしたらいい」と、誰かが決めて強制できるものではないはずだ。

言葉を求められたって、気持ちを一言で表せるほど、心に余裕はない。だから言葉にしたい人だけが、発信すればいいじゃないか。追悼番組を目にしたら、辛い気持ちがあふれてしまう人もいるかもしれない。だから過去の作品を観たい人が、自分でレンタルすればいいじゃないか。

私は友人の死について、いまだに言葉にできない。大学で四年間文章を学んで、今もこうして文章を書き続けて、それでも私はただ、もやもやしているのだ。とてつもなく悲しかったのに、言葉にしない私は、友人の死に関心がない、冷たい人だろうか。

コメントをもらおうとマイクを向け、「ご冥福をお祈りします」と追悼番組を流すのはやめて、「今は自分なりに向き合おう」って、メディアが風潮をつくってほしい。マイクを向けられる人の気持ち、本当に考えていますか? ポエムみたいなコメントは、誰のためですか?