左手の親指を、思い切りカッターで切ってしまった。
あ、これは縫わなくちゃならない傷だ、とすぐに察した。
血がたくさん出るとわかっていたので、声も出さないままティッシュの元へ走った。

「どうしたの!」
「すごい血!大丈夫?」
一緒に作業していた人たちがすぐに気がついて、チームのリーダーが、濡らしたティッシュを持ってくる。
とにかく座って座ってと言われて、歳下の女の子が私の両手の血を拭いているのを見ていた。

耐えられる程度の痛みと共に、電車に乗り込む

私たちは、建物の壁にスプレーでロゴをペイントするために、厚紙でステンシルシートを手作りしていた。
夜になって、この建物から人が減った頃。私たちは、赤や、青や、緑やら、カラフルなスプレーで、バンクシーのように一晩にしてこの建物の景色を変えてしまおうというわけだ。
バンクシーと違うのは、建物のオーナーから、許可を得ていること。

切ってしまった親指は、リーダーがティッシュとマスキングテープでグルグル巻きにしてくれた。
「今日土曜日か、かかれる病院探さないとな。」
自分で探しますという私を制して、リーダーや、近くにいた人たちが病院を探し出してくれる。
情けないなあ、と思いながら、自分でもこっそりとスマートフォンを取りに行って、病院を探し始める。

自宅からほど近い病院が土曜の午後も診察しており、外科の先生も出勤しているとのことだった。
「カッター、気をつけてね、みんな。」
というリーダーの声が現場に響く。小学校の先生のようにさせてしまったことが恥ずかしく、顔が赤くなった。
心配して駅まで送ってくれたリーダーに謝って、井の頭線に乗り込む。
15:20。
こんな時間に電車に乗るなんて、久しぶりだな、なんて呑気に考える。
指の痛さは耐えられるレベルで、声も涙も出なかった。

刃物のような言葉たちと、傷口を繋ぎ止めるティッシュ

指を切った時、私は彼のことを考えていた。
夏の始まりに別れた彼から、夏の終わりに連絡がきた。
「今でも君のことを思い出す。」
私たちは友達にでもなるのだろうか。と思った。
その3日後にまた連絡がきた。
「写真を送ります。彼女ができたので、もうやりとりできません。」
別れる前に撮って、現像しなかった写ルンですの写真だった。
そしてその週の火曜日から、毎日連絡が来るようになった。
「お前が嫌いだ。」
「お前を許さない。」
「のうのうと生きるな。」
メッセージは、不安定で感情が昂ったときの彼を一気に思い出させた。
壊されたイーゼル。穴だらけになった襖。耳元で響いた怒鳴り声。

今日の作業場は、その彼も、来かねない場所だった。
よりによって入り口付近で作業を始めてしまった私は、人の気配をゆらゆらと感じるたびに、入り口を振り返ったり、逆に身体を硬らせて絶対にそちらを見ないようにしたり、落ち着きがなかった。
あ。
と思った時にはもう手遅れで、しっかりと切れてフラップのようにプラプラとしてしまった親指の側面を、今はティッシュが一生懸命つなぎ止めようとしてくれている。

「強いから、大丈夫だね」 彼もそう思っていたんだろうか

「縫って欲しいって、言ったほうがいいよ。」
とリーダーに言われた通り、
「縫ってほしいです。」
と医者に伝える。
そうだよねえ、4~6針かなあ、と医者は頷いた。
「ただ、爪との境目の部分は縫えないから。反対側だけ縫って、押さえつけてみるイメージ。元々の皮膚がくっつくのが早いのか、新しい皮膚ができる方が早いのか、わからないよ。」
今度は私が頷いて、自分の体の中に糸が通っていく感覚を不思議に思いながら、縫われていく親指を見ていた。
「見ていて、怖くないの。」
「大丈夫です。」
「あなたは強いから、大丈夫だね。」
あなたは強いから、大丈夫だ。
そうですか。大丈夫ですか。
何を言っても大丈夫だと思って、当たり散らすように強い言葉で刺してくるんだろうか。
実際、大きな声も出さず、見えるところで泣きもせず、のうのうとしているように見える様子で死にもしないのだから、私は大丈夫なのか。
そういう扱いをして良いという認定を受けた人間なのか。

くっつくか、新しい皮膚ができるか 彼が諦めるか、私が諦めるか

さらっとしているように見えたとしても、私は多くのものに情熱を持って接しているし、嫌いと言われれば傷つくし、許さないと恨まれたら怖いし、のうのうとは生きていないし、親指は耐えられるだけで、痛い。

“元々の皮膚がくっつくのが早いのか、新しい皮膚ができる方が早いのか、わからないよ。”

結局は私が耐え続けて彼が諦める方が早いのか、私が諦めて自分ごと消えてしまう方が早いのか、どっちかの話なのかもしれない。

そのまま作業には戻らず、休ませてもらう予定だったのに、やっぱり私は動揺していたらしく、大事なMacbookを作業場所に忘れていた。
結局戻って残りの作業を手伝った。
私は、緑と、赤のスプレーを使った。

一晩で景色を変えられるような魔法が、誰の心にもあれば良いのに。
と思う。