指摘が心に靄をかけ、どうにか心の外へ追いだしたくて荒っぽい行動に

この前、おばあちゃんから指摘を受けた。
受けた直後、心の中は靄になって何だか怒りさえも込み上げてきた。つまりは、すぐに消化できなかった。
靄もどういった形か曖昧で名が付けられない怒りも心にずっと滞在していたから、どうにかして心の外へと追い出したくて本当にその一心になっちゃって。私の外側の行動が荒っぽくなった。
いつも静かめに閉めるドアを手に力を込めて音を立てて閉めた。昼食づくりの最中で出た野菜の袋ごみをごみ箱へ手に力を込めてスローインさせた。
そんな荒っぽい外側の私になって、少し時間が経った頃に「冷静さ」を天から受け取った。受け取ることができた。
冷静さが加わった私が直後に考えたことは、「指摘を受ける」っていう消化活動は難しい。の一言だった。指摘を受けたという渦中にいて、心が靄にかかったりよくわからない怒りに苛まれたはずだったのに突如それらの一環を消化活動にまでフレームアウトして客観視できたことを自分自身に褒めたくなった。

そもそもあれは指摘だったのだろうかと立ち返り、冷静に考えてみる

そして、そもそもあれは指摘だったのかという観点にまで立ち返った。私の家族は、平均して普段そこまで互いに干渉しない、はずだった。生きているからこそその平均は、家族に起こる出来事によって無論打ち破られるものだけれど。
けれどおばあちゃんはその平均をよく打ち破る張本人だったりするわけで、私にとっては打ち破った要因は些細なことである認識があったのに。

まさにこの前は青天の霹靂だった。
おばあちゃんの立場から見ると、それは「怒っている」というものではなさそうで。じゃあ、指摘されたのか私。と思って見直すと「文句を言われた・吐き出された」というものにも分類されそうな節があったり、けれど何か問題点があってそれをあなたに直してほしいという「この先への他者への願望」や自分も気をつけていくからここをこう対策して解決していこうといった「改善をしていこう、ともに」のようなものがなかった。
あれ、これは指摘ではないのか。なんなんだろう。愚痴っていうわけでもないしな。ここで普段ならば、ありきたりにその言葉「指摘 意味」とかスマホに打ってなんとなく検索したりする。

でも、言葉が持つ公共な多義な意味に今回の「指摘」がヒットする感じ、予感がしなくて。検索ボタンを押す前で辞めた。あてはめていく作業をして余計ストレスになる気もしたから。

「指摘」の消化は難しいけれど、巡りよく流していくスタンスでいたい

アルバイト先で上司に指摘を受ける感じとも違うのは、おばあちゃんのそれに「改善」が込められていなかったこと。
そして、とりあえず口に出しておけばいいという惰性なか否かはさておき、たった一言でもニュアンスで行間を掴めるでしょ。が込められていたことの大きな2つがあったからじゃないかなと思った。
「確かに家族間の話。けど、人間同士だからな」と私の心にあった何だかよくわからない怒りはおそらくこのおばあちゃんから発せられた言葉の伝達力のなさに対して生まれた感情なんじゃないかと思う。

本当に難しい。ここまで、今回の私自身の「指摘を受ける」(た)出来事を書いてきた。ここまででの出来事をつらつらしたのも、一つの私の中での消化活動だ。
でも、ここからその「指摘」をうまく私が消化しなくては。そしてまた私は、私の中で自問自答に走っていく。

現時点の私が、思った消化活動は3段階。まず「自分で改善の道を組み立ててみる」、次は「その道があったと反省する」そして「程よく忘れる」。
いつまでも「指摘」の出来事ばかり凝視しなくても死なない。生きていける。寧ろ、程よく忘れながら生活へ足を踏み出せばいいんじゃないか。消化活動は難しい、だったら無理して全部飲み込んで私自身の血肉にしていくスタンスではなく、巡りよく流していくスタンスでいよう。