脱毛しようか、しまいかという迷いがつもる生活。
私は、どうしても、どうあがいても現在も進行形で、脱毛するべきか問題に頭を悩ませている。
では、私は普段の生活にどのくらいこの問題に思考しているのだろうかという部分で、生活を見つめ直すとそれは、私自身が予想していたよりもはるかに膨大な時間だった。
動画を見ていると流れてくる「脱毛の広告」に、振り回されている
この問題が、私の生活で占めている思考のウエイトに驚いた。私の場合、脱毛について考える時間は、緩く閉められた蛇口でわずかにポツン、ポツンと重力に身を委ねてシンクに落ちてく水滴ぐらい。1回1回は、そんな水滴のようなものなのに、気づけば大きな群となって束ねられた問題になってしまっている。
今年になって、さらにこの問題への重大さが増したと思う。それは、スマホと対峙する時間が、圧倒的に増えたことが関係している。
好きなアーティストやバラエティ番組の動画を見ようと、アプリを開けばその動画の開演なんだか前座のように、当たり前に関係ない広告が流れてくる。私にとって関係ない広告であった時には、何の躊躇もなく本動画へのスキップボタンを押していた。
けれど、どこからかデータマーケティングされているんだかで、ここ最近はかなりの確率で脱毛サロンの広告動画が私の目の前を流れてくるようになった。その時、ちょっとだけ個人情報漏洩にびびっと怖さも感じつつ。
漏洩された情報から分析されていて流れる広告で、脱毛に対しての意識がより実行の兆しへと誘っていく。重ね重ねだけれど、GO TOキャンペーンのなんの分類に入るのかわからないが「脱毛の施術が半額になりますよ~こいこい~脱毛しちゃおうよ~」とこれまた誘ってくる。ここまでで、ものすごい私は自分のスマホの情報に右往左往…振り回されてるなと思う。
広告じゃなく友達に聞いて、脱毛って「人それぞれでいいんだ」と思う
じゃあ、リアルの世界で、周りはどう思っているのか。
考え直してみると、私の周りの友達は綺麗に50:50で、脱毛に関する意識が割れていると感じた。
「ちぇっ、ネットの世界での脱毛意識調査と全然違うじゃん」と思った。私は、ネットの世界での脱毛意識は、先に言った脱毛広告などを意識しすぎるがあまり、全女子の9割ぐらいが「既に脱毛したい」という願望から抜け出して実行へと移そうとしている、あるいは「当たり前すぎるわ」と済ませている人たちで溢れていると思っていたから。
ここで私の周りの意識を知り直すと、リアルとネットとの世界の乖離が著しい。私の周りでは「脱毛?ああ、通ってるよ~。何回か通った後から実感沸いたよ。毛がポロポロ抜けてくの!面倒くささがなくなっていいわ」と言う友達は、私がこのことに空返事をすると、ネット広告みたいに勧誘チックな言葉を返してきたり。
また別の友達は「お金がな~。ってか、私には定期的に自分の裸を見られる相手なんていないし、不特定多数に見られる部分じゃないじゃん?だからまあ、どうしても気になった時に自分で剃ればいいかなって」と言う。
私は、友達の本音を聞いて、脱毛ってやっぱり人それぞれでいいんだなって思う。結局、どっちつかずな結果になった。
脱毛してもしなくても、私はその時の「自分の気持ち」に素直でいよう
私自身の脱毛意識は、広告とかの勢いに流されすぎず、今度は能動的にちょこっとずついつかするであろう脱毛の知識を得ていくスタイルへ変えていこうと思えた。
リアルとネットの世界、2つの世界観がみんな1人1人にあるみたいに、今後私が脱毛してもしなくても「脱毛してないの?」という決まり文句は言わない。
そして、“ありのままでいたい”という究極の考えにも縛られない。ただ、その時の私に素直でいようと思った。