新型ウイルスの感染マップを、来る日も来る日も確認した
新型コロナウイルスが広がっていくさなか、夏の一時期、わたしはメディアをあまり見ないようにする日々が続いた。
新たな疫病の蔓延で、社会がどうなっていくかわからない状況下、本来であれば情報は何よりも貴重で、積極的に入手すべきもののはず。
だけど「メディアに触れたくない」と思う日がしばらく続いた。
なぜって?
ニュースを見ているうちに、自分の感覚が、そら恐ろしくなったからだ。
ある新聞のウェブ版の記事で、コロナウイルスの感染がどこにどれだけ広がっているのか、マップで確認できるものがあった。
世界地図に、感染者は赤い円となって表現されて、円が大きいほど感染者が多いことがわかる仕組みだ。
それを見ると、どの国が今どれだけ感染拡大しているかだけではなく、過去をさかのぼってどれほどのスピードで感染が広まったのかもわかるようになっていた。
マップはそれだけではなかった。
表示を切り替えると、今度は黄色い円で死者数が表示されるようになった。どの国で、どれくらいの死者が出たかが一目でわかった。
わたしはそのマップをほぼ毎日チェックした。
感染の円はいろんな国で拡大していった。
それを、来る日も、来る日も、確認した。
確認し続けていたのは、日本のウイルス対策が果たして正解だったのか、わからなかったからだった。日本の対策が正しいとするなら、感染を防げて、円の拡大も他の国と比べて小さくとどめられているはずだ。
安心したいために、わたしはマップを日々開いて眺めた。
感染マップの数字を眺めるのは、単なる「興味」かもしれない
けれど、それを繰り返すうちに、なんだか違う気持ちが芽生えた。
医療従事者でもなく、感染症に関する仕事をしているわけでもない自分がマップを眺めているのは、単なる「興味」ではないかと思えてきてしまったのだ。
語弊を恐れずに言うなら、日々ふくらむ円を見ていて思い出したのは、運動会の玉入れだった。
玉入れでは、最後に必ず玉を数える。かごを斜めに倒して、中にいくつ玉が入っているか、ひとーつ、ふたーつ、と声をそろえてみんなで数える。赤組が多くて、白組が少ないとか、今度は白組がたくさん入って、赤組はほんの少ししか玉が入らなかった……というような。
――あの国の感染者は、この国より多い。
――そう思っていたら、この国の死者がどっと増えた。
コロナウイルスの感染マップを眺めることは、ぽんぽん放られる玉を数える感覚に、よく似ていた。
怖い、と思った。
わたしは人の苦しさや、ましてや死を、単に数量でしか感知できなくなっているんじゃないか。
このマップからでは、どの人の感情も、苦難も、まるでわからない。ただただ、円のふくらんでいくのを見ているばかり。
人間として、これはまずいな、と自分で思った。
そうして、報道から一時期的に距離を置いたのだ。
記号化された情報に触れて、わかった気にならないように
距離を置いて、今思うのは、ただなんとなく報道を眺めているのって、もしかして危ういことなのかもしれない、ということ。
報道を見ていると、最新情報に触れられて、もの知りになれた気分がするし、なんでもわかったような気になる。コロナウイルスなら、今どれだけ感染が広がって、どの国でどんな状態が続いているのか……と、理解した気分がする。
だけど、それって「わかった」って言えるのか。
もしかして上辺だけをなぞっているだけかもしれない。
数値だけ追いかけているだけなのかもしれない。
遠くの国の出来事を知れたようで、実情はちっとも把握できていないのかもしれない。
今言えるのは、報道は、出来事のすべてを言っているんじゃないんだ、ということ。
人の苦しみも、生き死にも、情報になると記号化される。記号になって、簡略的になったからこそ、遠い距離を越えてわたしが知ることができる。
当たり前のことなのに、忘れて、画面に見入る自分がいる。そして、記号化された情報を見て、わかった気になりかけたところで、あ、危ない、と気づくのだ。
ニュースを見る日はこれからも続く。だから、すぐに「知った気」にならないように、気をつける。