新型コロナウイルスが流行りだしてからだろうか。情報の影響力というものを改めて感じる機会が多くなった気がする。みんな不安だから調べる。ニュースを見る。そしてマスコミも需要に応じていろいろな情報を提供する。今は感染拡大しだした初期のころと比べたら、パニックは少し落ち着いたのかもしれないが、私は内心びくびくしている。

「見てください、こちらの棚。商品が全てなくなっていて、からっぽになっています」
トイレットペーパーの買い占めが起きたときのとあるニュース番組の中継のセリフである。みんなコロナで疑心暗鬼になっていたころだ。マスクの原料不足がトイレットペーパーに影響するという誰かのデマがツイッターで拡散されてしまい、不安からみんながトイレットペーパーを買いまわってしまったのだ。デマの情報を知らなかった人も、このニュースの映像を見て、トイレットペーパーを買いに走ったかもしれない。不安をあおり、みんなの心をぎすぎすさせる報道が多かったような気がする。感染者差別や医療従事者差別。根も葉もないうわさやデマ。このころの私は心のどこかで温かいものを探し求めていた気がする。

ストレスの捌け口としての過剰な報道に目を覆いたくなった

芸能人の自殺の報道のときもそうだった。自殺の原因は何だろうと、芸能人の自宅に大量の記者やカメラマンが押し寄せ待機している映像を見たとき、胸が痛かった。あれこれ詮索しても仕方がない。そっとしてあげてほしい。事件が起きたとき、被害者の家族に過剰に取材をする場面もよく見受けられる。やめてあげて。そのときも、そう思った。マスコミの全部が全部そうとはかぎらないが、配慮が足りない、思いやりがないと思うことが多々あった。

 これも新型コロナの影響からか、みんなストレスがたまって、そのはけ口として、情報が悪い方向に利用されていることが多くなった。知りたい!という興味の対象として、過剰に報道され、誰かを傷つけることはなかっただろうか。

報道の根本的な目的は「つなげる」こと 思いも幸せも過ちも

たくさんの有益な情報を提供することと、過剰報道することは少し違うと思う。報道の根本的な目的はどこにあるのだろうと考えたとき、それは人々を「つなげること」じゃないかなと感じた。遠いところに住む人たちの様子や思いを報道の力で、別の人たちにつなげる。人々が安心して毎日楽しく過ごせるように。つらい事件や事故も教訓として、当事者から視聴者の人たちへと「つなげる」こともあるだろう。どうか自分の経験を無駄にせず生かしてほしい。大変なときに記者が乗り込んで発信するのではなく、落ち着いてから当事者主体のメッセージとしてのほうが大事なんじゃないだろうか。コロナ禍でぎすぎすしているとき、アナウンサーが「こういう大変なときだからこそ、思いやりの心でみんなで支え合って乗り越えていきましょうと」呼びかけていた場面があった。このときはアナウンサーさんから視聴者へ温かい思いが「つながれて」いた。

情報の持つ力は強い だからこそ温かな思いがつながれる報道を望む

マスコミの力は想像以上に強く、そしておそろしい。使い方を間違えると、不安をあおったり、ヒートアップしたりして誹謗中傷につながり、誰かを傷つける力も持っている。温かい思いやりのバトンが「つながって」いくような報道がこれからも、もっともっと増えていってほしいと強く願う。