精一杯生きながら今夜も泣いているかもしれないあの子と私へ
今週もやっとたどり着いた金曜の夜。
別に大した仕事はしてないけど、なぜか週末は自分を甘やかしたくなる。
「明日は休みだし、今日は家でビールでも飲もうかな」
ひそかな楽しみに、顔をにやけさせながら近所のコンビニに入る。
そのままお酒コーナーへの最速ラップを決めようとしたとき、カラフルに掲げられている雑誌のタイトルに思わず立ち止まる。
『30代いまだ未婚私に足りないものとは』
『20代のうちに結婚する方法』
「…またか」
なんだかもやもやする気持ちを振り切って、お目当ての銘柄に手を伸ばす。予定よりたくさん買いこんでしまったけど、まぁいっかと早々に店をでた。
一人で歩くアパートまでの帰り道、立ち並ぶ家々から漏れるあかりがまぶしい。
ここにも、あそこにも、家の分だけ人間がいて、家族がいるのか…
頭の空白にさっきコンビニで見かけた雑誌のタイトルが入ってくる。
みんなが普通にできていることができない私はやっぱり何か「足りない」のだろうか。
帰宅後、音がない空間が寂しくてなんとなくテレビのリモコンに手が伸びる。
映し出されたバラエティ番組には「訳アリ女の〇〇旅」というテロップ、そしてそこに出演しているのは30代をすぎて未婚、または離婚歴がある女性タレントだった。
どうやらこの番組では30代をすぎて結婚していないことを=異常(訳アリ)と定義しているみたいだった。
「はぁ」思わずため息がでる。
ご褒美のはずだった缶ビールも、なんだか寂しさを演出する小道具になっている気がして、
これはビールが苦いのか、それとも人生の苦さなのかだんだん分からなくなってくる。
そんな時はいつもテレビを消して、深呼吸してみる。
どうしてもやもやしたんだろう。
いま、ひとりでいて寂しいから?
でもわたしこの時間割とが好きかもしれない。
ひとりでいることってそんなに「可哀そう」なことなのかな。
それは誰の感想なのかな。私じゃないかもしれない。
自分の声と周りの声を少しずつ切り離して、ほどいていく。
次第にひとりで過ごす時間の表情が変わっていくのを感じるようになる。
今日は満月なんだとか、星がやけに綺麗だな、とか別に何でもないことに気が付くし、
明日の朝は誰か誘って美味しいモーニングを食べに行こうかな、なんて楽しみを思いつく。
メディアが作る厚い雲から雨が降り、私やあの子の涙にかわった
私も20代後半になって、こうしたメディアの煽りにはだいぶ慣れてきた。
だけど生理前なんかのお豆腐メンタルなデリケート時期にこういう「おひとりさま可哀そう爆弾」をくらうと平気で粉々になってしまいそうだ。
私は未婚でもちろん子供もいない。
コンビニで、テレビのバラエティー番組で、ネットニュースで、
私は「足りない人間」になるし、「訳アリ」にもなって、粉々になる。
未婚であることをいじられる「モテないキャラ」のタレント。
「女性にとって子供を持つことが人生最大の喜び」と全女性の総意のように語るネットニュースの記事。
20代前半、メディアの声を疑うことがなかった私は、
30歳までに結婚して子供を産まなきゃいけないと「可哀そうな人」になってしまうと思い込んで、慣れない合コンに行きまくったし、男の人に選ばれる「モテる女」になろうと日々猛烈に努力していた。
でもいつだっただろうか、そういう結婚に向かう一切合切が急にめんどくさくなって、それから無理に自分を取り繕おうとするのをやめた。
その代わりにいったん立ち止まって自分が感じるもやもやを丁寧にほぐしていく作業を始めた。
そして、一部のメディアが提示する局地的な地図をあたかも世界地図と勘違いして鵜呑みにしていたんじゃないか、と思うようになった。
私が内面化していたメディアは私の人生をより良いものにしようと助言してくれていたのではなく、というより、それとは全く別の目的の元、私たちを煽っているんじゃないのだろうか。
きっと、メディアが作る雰囲気が世間を覆う分厚い雨雲になって、そこから降る雨は私やあの子の涙になっていたんだと思う。
なんだか冷える今夜、また別の誰かが泣いているのかもしれない。
結婚しても、一生独身でも、私なりに「普通」に生きていく
精一杯生きながら今夜も泣いているかもしれないあの子と私へ
今はそうしたメディアの声に降れるたびに、それによって傷ついているであろう人たちのことを想わずにはいられない。
大丈夫、と手を握ってあげる。
今日は寒いねあったかくしてね、と声をかけてあげる。
私はこれからも「普通」に生きていく。
結婚するかもしれないし、一生独身かもしれない。
どっちでもいいし、きっとどっちも幸せで、きっとどっちも寂しいんだろうと思う。
「訳アリ」で「足りない女性」と呼びたければ呼べばいい。
けどたぶん、そんな小さな地図に私はいない。