容姿について触れるということについて、改めて考えてみた

他人の体を見てしまったことがあった。
恐らく無意識で自分と比べてしまっていた。
その度に私たちは不幸になっているのではないか、と思ったのはつい最近のことだ。

そう思ったのは世界で幸福度が高いとされる国の一つ、フィンランドでは「良くも悪くも容姿に対して触れない」と聞いたからだ。
そう聞いて改めて考えてみたが、容姿について触れるというのは、つまり他者を比較・値踏みしているということに繋がるのではないだろうか。そこにある善意・悪意は関係なしに、だ。
そして相手を褒めたところで、それとは正反対のジャッジが自分に下っていることがあるのではないだろうか。「綺麗だな」と思ってつい見てしまった場合、「私よりも」という言葉がついているのかもしれない。それは恐らく無意識のうちで、だ。

自分と違うから見る、何故か見る。勝手に他者を比較した。区別した

冒頭に書いた通り、私も同性ではあるが私にも他者の体をまじまじと(こっそりと)見てしまったことがある。
相手の胸が大きかったのだ。
魅力的だったのか、と聞かれるとそういうわけでもなかった気がする。ただすごく大きいなと思って少々まじまじと見てしまい、その場で反省したという過去が私にはある。
思えば、自分と違うからこそ見てしまったというのがあるのかもしれない。
自分よりも大きかったから、つまり自分を始めとした平均の大きさとは違っていたから。
自分と違うから見る、何故か見る。
何故だろう。
勝手に他者を比較した。区別した。
違っていたから何だと言うのだろう。
うらやましかったわけでもない、そうなりたいと思ったわけでもない。
それでも何故か私には無意識で「比較してしまった」という経験があるのだ。
そもそも同性であっても異性であっても、何の断りもなく体を見られるのは良い気分ではないだろうに。

見られることが前提の社会。幸せから遠ざかることをやっていたのかも

先の話に戻るが、フィンランドでは容姿について触れることはタブーとされているらしい。フィンランドに限らず欧米では体のパーツを褒めることは良いことではないと聞く。
そう聞いた時に私は日本では難しいだろうなと何となく思ってしまった。何故か。例えば朝通勤する時、電車に乗ったら「綺麗」になるための脱毛や化粧品の広告があるし、ある口紅は「はっと目を引く鮮やかなカラー」と紹介されていたし、「注目を集めるにはこれ!」というような雑誌の記事なんかも見たことがあるからだ。「太ったね」と言われることもあるし「痩せたね」と言われることもある。
周りをよく見渡してみれば、私たちは美しくあることがもてはやされている社会で、見られることが前提の社会で生きているのではないだろうか。
それは幸福とは反対のものなのかもしれない。

他人の体をつい見てしまう時、失礼だからやめた方が良いとそれまでは思っていた。
もちろんそうだ。
だけどそれに加えて、私は自らに生きにくさを——自分を肯定する力をそぐことを、無意識でやっていたのかもしれない。幸せから遠ざかることをやっていたのかもしれない。
そういう社会に生まれて生きていると言われればそれまでかもしれない。
でもそう気づいてしまったからには、私は他者の体に視線を向けることがものすごく生産性のない、誰にとってもメリットの発生しないものではないかと思って仕方ないのだ。