無駄か無駄じゃないかの基準は、美しいか美しくないかにあるそうで
「無駄毛」と呼ばれている毛があります。
そもそも、毛に無駄も無駄じゃないもあるの?と思うので、手元にある辞書(『新明解国語辞典第七版』)を引いてみると『美容上好ましくない毛』とあって、無駄か無駄じゃないかの基準はどうやら美しいか美しくないかにあるようです。
たしかに、テレビや雑誌などで目にする美しさの代表のような女の人たちは、体毛の存在を一切感じさせないつるつるの肌をしています。普段生活をしていて、目に飛び込んでくる広告などの情報でも、「無駄毛」は良くないもの、恥ずかしいものとして表現されて、美しさの敵のような扱いを受けています。
でも、本当に「無駄毛」は美しくなくて、恥ずかしいものなのでしょうか。
私が「無駄毛」と呼ばれる毛のことで、一番悩んでいたのは小学校低学年の時でした。ある瞬間に、私は人より体毛が濃いのだと思い込んでしまい、それから自分がひどく醜くて、みっともないもののように思えてきて、急に人目が気になるようになったのです。
自然に生えているただの毛のことで、どうしてこんなにも悩むの?
小学生の私は、体毛は生えていてはいけないもの、という認識だったのです。なぜそのような認識を、子どもだった私が持っていたのでしょうか。考えられるのは、体毛を美しくないものとして認識している社会が、体毛を社会から排除しているために、女の人の体毛を日常で目にすることがほとんどないことや、体毛が性別を問わず、からかいの対象として使われているのをテレビなどで見ていたことが大きいように思われます。
歳を重ねるにつれて、「無駄毛」にまつわる社会のイメージや、脱毛の広告に少しずつ違和感を覚えるようになりました。
身体の、自然に生えているただの毛のことで、どうしてこんなにも人目を気にしたり、悩んだりしなくてはいけないのか。どうして、それぞれ違う身体と魂をもっている私たちが、ひとつの美の規範で、他人や自分自身を判断するのか。どうして、そういう価値観を植え付けてしまうような広告がこんなにも多く作られているのか。そして自分自身を苦しめてまで、その価値観に従う必要がどこにあるのか…。
息がしやすくなっていきました。何が美しいかは私が決めていいんだ
そう考えるようになった時、これまで私を苦しめていた人の視線や、社会が発信してくる『こうあらねばならない』というようなメッセージがあまり気にならないようになり、ずっと息がしやすくなっていきました。
「無駄毛」が生えていても、生えていなくても、私は私だし、私は私を大切にしたらいい。何が美しいかは私が決めていいんだ、と思えるようになったのです。
そして、あの頃の私が苦しんでいたのが「誰かの視線」なら、私自身を大切にすることが、同じように「誰かの視線」に苦しんでいる誰かの、その視線からの解放にも繋がっているような気がします。