"目は口ほどに物を言う"とはよく言ったものだ。
相手にその気は無くても、視線が上から下に移ってゆくのが見えると、あぁ、この人もか......ともはや諦めにも似た感情になることがある。
人目よりも見た目を一番気にしているのは、自分自身かもしれない
私は化粧をすることに抵抗があってスッピンだし、太っているから相手からしたら"だらしがない人"と思われているのだろう。もちろん、人を嫌な気持ちにさせないぐらいの清潔感は意識しているつもりだ。
しかし、"スッピン"、"太っている"ということは自分の見た目に対して自己管理が出来ていない、という印象を与えるらしく、そういった目で見られることが多いと感じている。
もう慣れたとはいえ辛いな、と思うことがあるのだけれど、そう思う一方で、それは私の被害妄想なんじゃないの......?とも思う。誰よりも自分の見た目を気にしているのは自分自身なのかもしれない。その証拠に、私は鏡を見ることが苦手だ。
鏡の前に立ち、自分の顔を見るとすぐに目を逸らしたくなる。たるんだ顎、太くなった眉毛、綺麗とは言えない肌が鏡に映る。
そのまま全身を見ていくと、なんだかもう目も当てられないぐらいに悲しくなる。私は、自分の体を好きとは思えないのだ。その理由は、過去にかけられた言葉たちに思い当たる。
ずっと嫌いだった体型を、妊娠や子供たちの言葉が好きに変えてくれた
子供の頃から、ぽっちゃり体型だった。体型が原因で家族から心無い言葉をかけられたり、学校ではいじめられることもあった。
高校生のころ、先生に「お前は見た目がな......。痩せたら可愛いのにな」と言われたこともある。そんなことがあるたびに、胸が痛くなった。私のことを見る周りの目が、私の心をチクチクと突き刺していく。視線が、痛い。
そして大人になり、子供を4人産んだ私の体はお腹の皮が伸びた。4人目妊娠のときに悪阻がつらくて最高記録だった体重のときより15kg痩せたけれど、変わらず見苦しいものになっている。
お風呂で体を洗うたびに自分の体を嫌でも目にしなくてはいけなくて、そのたびに「うわ......」と思うときもある。でもそれは、私が4人の子供達をお腹の中で大切に育ててきた証でもあるのだ。
そう考えると、ほんの少しだけ自分の体を好きになれそうな気がしてくるから不思議だなぁ、と思う。
自分の体を好きでいることに、他者からの評価は必要なのだろうか。
私は今のところ自分の体に自信は無いけれど、部分的に好きなところもある。くっきりとした二重まぶたはいつも羨ましがられるので、自分でも特に好きなところだ。
私は綺麗な手の人に憧れがあるけれど、子供達は私の手を握ると「もちもちしてて落ち着く~」と言ってくれるので、私は自分の手を好きになることができた。
他人の視線で自信を失くしていたからこそ、誰にも優しい視線でいたい
なんだ、私は他人からの視線の影響で自分の体に自信が無くなり、自分自身でも厳しい目で鏡に映る自分の体を見ていただけなんだ。
よく考えてみると好きなところもあるんだ、と今、この文章を書いて気付くことが出来た。それだけ、私は自分の体から目を逸らし続けていたのかもしれない。
「私は太っているから、自分の体を好きなってはいけないんだ」という固定観念に囚われていたのかもしれないな、と思う。きっとそれは、とても悲しいことなのではないだろうか。
だから、私は他者への視線は優しいものであるように心掛けている。スッピンだろうが、ぽっちゃり体型だろうが、たとえ奇抜な服を着ていても、その人が自分自身を好きでいられるために。
私の視線で、その人の自信が無くなることがないように。むしろ、「あなたのこんなところいいね!」と人の良さを見つけて声を掛けられるような人間でありたい。