さすがに、うんざりしている言葉がある。
「お肉、たべてる?」
いままで何回言われたかわからないくらい。
わたしは昔から痩せ形で、小中高いつの時代も、「細いね」「細すぎ!」とか言われてきた。だけれど、体型について気にしだしたのは、大学に入ってからだった。きっかけはなんだっただろう?

「太った?」はタブーなのになぜ「細いね」は許されるのだろう

体型について、見た目について、深く深く考えて、人目を気にして、とても辛い数年だった、というか今も続いてはいるけれど、その暗黒的な時代をあまりおもいだしたくない。
もっと太らなくちゃ、とおもい、毎日なんでも腹十一分目までたべた。1日も休んじゃいけない、少しでも食べる量が減れば、痩せてしまう。

友達や親に理解してもらうことは、とっくに諦めた。例えば友達に、「太った?」「デブだね」と言うのはタブー。よくないこと、と誰もがわかっているはずなのに、「細っ!」「ガリガリじゃん」が許されるのはどうして?体型やダイエットの話がでるたび、最後にはわたしに視線が集まる。「太ってなくていいよね」と言われて、どんな言葉を返して欲しいのだろう?

「いいでしょ。」と言っても、「そんな、全然細くないよ」と言っても、怪訝な顔されるだけ。こんな状況を何十回と繰り返してきて、うるせえな!と殴りたくなる気持ちが彼女たちには一生かかったってわかりゃしないのだ。必死でヘラヘラするのにも、とっくに疲れている。

SNSに上がった友人の水着写真。見たくないのに自分と比べてしまう

ある日突然、ご飯が食べられなくなった。ちいさなゼリーひとつしか食べられない日もあった。急に涙がとまらなくなって、でも友達や親の前で泣けないから、毎日トイレやお風呂で泣いていた。そのとき、なんで泣いているかもよくわからなかったけど、悲しくて悔しくて辛かった。

インスタの写真には、みんなの水着姿がうつっている。それがわたしには、耐えられなかった。見たくない見たくない、でもなんでかやめられない。浮き出ていない、あばら骨や腰の骨。胸の谷間。
お風呂の鏡にうつる自分のからだが大嫌いで、毎日泣きながら鏡の中の自分を殴った。

いま、わたしは就職して、働いている。あれからだいぶ落ち着いて、自分の容姿もほんのちょっとではあるけれど、こんなからだもいいよな、と思えるようになってきた。小説のように、はっきりときっかけとなる出来事があったわけではないのだが、時間が、自分の気持ちを徐々に癒して固めていってくれたようなきがする。

悲しんでいる暇はないから、踊るように言葉のナイフを避けていく

いまでも、からだにフィットする服は着ることができない。誰かと温泉に入るのも、水着で海へいくのも、嫌だ。
だけれど、社会に出て、働いて、自分のすがたを隠すことはできない。そしてまた、わたしの体型は変えることができないと知った。
貧弱、ガイコツ、ガリガリ、細すぎ、臓器どこに入ってるの?また痩せた?
肉、ちゃんとたべてる?...

もう、なんとでも言ってくれ。これからも絶対に傷つきつづけるだろうけど、一生、言われ慣れることなんてできないけど、悲しくなっている暇はないから、そんな言葉は一瞬で脳内から放り出し、今においていくことにする。言葉のナイフを避けるための鎧なら、何種類でも器用に使い分けてやる。
わたしは、自分だけがもっている、このかわいいからだを、大切にする、ときめた。