昔読んだ小説にこんな場面があった。確か登場人物は、中学生か高校生かそれくらいの男女だった。その男女は、ある日抱き合う。ふとしたことをきっかけに、ハグをするのだ。

昔読んだ小説に出てくる「女の子の気持ち」、わかる気がする

女の子は、魂同志で抱き合う運命のような心地でいたが、後日男の子が教室で男友達と女子の胸の大きさについて話しているのを目撃してしまう。そして、もしかしたら自分と抱き合ったときも胸のことを考えていたのだろうかと思うのだ。

最終的に女の子は男の子からキスをされ、戸惑い泣きだしてしまう、そんな場面で終わったと思う。つまり女の子は、まったく“そういうつもり”がなかったという話だ。

思えば、なんとなくわかる話である。ある日を境に男の人の“そういう”目線に気づき、戸惑う経験は誰しもあるのではないだろうか。

しかし、すでにその感覚は過ぎ去ってしまったなと、私はふと思うのだ。瑞々しさが足りないと。

目立たずに個性を消して「そういう目線」から逃れて生きている

デートに行くとき、子供の頃の私ならとにかく自分の好きな服の一張羅を身にまとって会いに行ったはずだ。

しかし、今ではどうだろう。彼のことを考えて、夜のことを考えて、似合う服を身に着ける。似合うと好きは、別物だ。場面に似合わせて、ものごとを選んでいるのだ。

場面に似合わない人がその場にいたら、人はみな“そういう”目線を投げるだろう。目立たず飛び出さず、個性を消して“そういう”目線から逃れて生きる。生きづらい世界だと思う。

また、私は子供の頃から太りやすくて体型を気にしていた。大人になっても未だ太りやすいけれど、体重や体型はずいぶん落ち着いて、今は人並みになった。それでも日々、自分は太っているかもしれないと気にする場面がある。

本当はスキニーパンツをはいてみたいけれど、脚の太い私が着たら“そういう”目で見られるかもしれない。そう思うと、一歩踏み出せずにいる。

私も自分の「好きを貫く人」のように、瑞々しい世界で生きたい

男の人からの“そういう”目線、街を歩く人の“そういう”目線、これらを初めて認識したその日の衝撃は、もうどこかに行ってしまった。それ以前、瑞々しい世界で生きる私もどこかに行ってしまった。

残ったのは、“そういう”目線で見られることに対する自己防衛と、自分を客観的に見つめる目だ。

自分の“好き”を貫く人は、すごいと思う。きっとその人の見る世界は、瑞々しいのだ。「どんなにそういう目線で見られたって、自分がそれを好きなら関係ない」と言い切れる。そんな強さも持ち合わせていると思う。

私は、いつだって傷つくのが怖いのだ。

あぁいつか、いつか、私も子供の頃のような世界に生きてみたい。私は、勇気を出して買ったスキニーパンツを眺めて、手にとっては“好きを貫く自分”を思い描くのだ。