わたしは小さい頃から体が小さい。生まれたときは2500グラム未満のいわゆる低出生体重児で、幼稚園でも小学校でも背の順に並んだときは一番前でみんなとは違うポーズをしていたし、中学校の合唱コンクールでは毎年一番前の列で歌っていた。それでもその頃は自分のからだにあまり不満はなかった。

うわべだけの「かわいい」なんかいらない。卑屈な自分が嫌だった

高校生くらいになると、いつの間にかわたしより背が低かったはずの友達に見下ろされていたりすることも少なくなかった。そのくらいの時期から、すらっと背の高い子を見ると羨ましくてしかたがなくなった。テレビで目にする芸能人や雑誌のモデルさんたちはみんな背が高くて手足が長くて痩せていて、同年代の女子はみんなそれに憧れる。わたしはなんでこんなに背が低くて脚も短いんだろう。鏡で自分のからだを見ては、劣等感でいっぱいになった。

わたしのことを小さくてかわいいと言ってくれる人もいたけれど、そう言われるたびになんだか自分が女性としてではなく小さな動物として見られているような気がした。本当はかわいいなんて思ってないくせに。みんな雑誌に載っている背が高いモデルに憧れているくせに。そんなうわべだけの「かわいい」なんかいらない。自分のからだについて触れられるのも嫌だったけれど、何より褒め言葉であるはずの「かわいい」を素直に受け取ることができずに卑屈になってしまう自分が本当に嫌でみじめだった。
やがてわたしは大学生になった。大学にはいろんな体型の人がいた。背の高い人も低い人も、太っている人も痩せている人も。わたしの体型コンプレックスはというと依然として解消されないままだった。

仲良くなった男の子の言葉。初めて「ありがとう」と言えた

そんなある日、仲良くなった男の子に、「ちっちゃくてかわいいよね」と言われた。
もうだいぶ聞き慣れたその言葉に「かわいくないよ」とお決まりの返しをすると、彼は笑いながら、でもしっかりとした口調でこう言った。「かわいいかかわいくないかは、君が自分で決めることじゃないよ。俺の主観でかわいいと思うんだからかわいいんだよ」と。
はっとした。なぜわたしは今まで自分のからだに向けられる視線や言葉に必要以上に疑いの目を向けていたんだろう。それはきっと、自分が一番自分のからだを肯定できていなかったから。彼の言葉は、当たり前のようで忘れかけていた、自分の価値は自分だけで決めるのではないということを教えてくれた。そしていままで頑なに否定し続けていた自分のからだに向けられた言葉に対して初めて「ありがとう」と言えた。

もちろん今でもだいたいのフリーサイズの洋服はすそが余ってぶかぶかだし、満員電車の中では大きな男の人達に押しつぶされるし、街中では高校生に間違われることだってある。そのたびに身長がもっと高ければなあと思う。でも、誰かが好きでいてくれるわたしのからだを大好きになれなくたっていい、ちょっとだけ認めてあげよう。そう思ったら鏡に映る自分のからだが初めて愛おしく思えたような気がした。