小さいころからもじゃもじゃのアフロヘアーで、時にボンバーと呼ばれて髪を触られ、いじられてきた。ある時は体育の待ち時間に、ある時は学校帰りの畦道で仲間と花の蜜でも吸いながら。周りから見たらいじめに思えるかもしれない。
しかし、当の本人である自分はむしろその状況を楽しんでさえいた。どちらかというと「嫌がってるからやめなよ」という言葉がお節介に聞こえ、余計に傷ついたものである。

生徒を守るための校則は、猛烈なコンプレックスを解消させてくれない

髪に対して猛烈なコンプレックスを抱き出したのは、そのあとのこと。いわゆる思春期を迎えたころだった。私立中学に進学した私は慣れない電車通学と、都会のキラキラしたお嬢様方の中で、同じように髪を触られてはいじられた。
猛烈な拒否感をこの時初めて覚えたのである。それから私は人との接触を極力控え、まとまらない髪は全て三つ編みにして登校した。
一度先生に相談したことがある。「縮毛矯正をかけさせて欲しい」と。かえってきた答えは「校則で禁止です」。校則とはなんなのだろう。生徒を守るためのものではないのだろうか。
私はオシャレ目的で矯正をしたいのではない。みんなと同じ社会生活を送るために必要であるからこそしたいのだ。人前に出る際に恥ずかしい思いをしないためにだ。それを大人は誰も分かってくれなかった。

縮毛矯正をかけて、私はようやく人間関係のいざこざに仲間入りできた

初めて縮毛矯正をかけたのは高校を卒業して3日後だった。周りの人たちは、みんな「技術ってすごいね。雰囲気変わったね~」と言った。なんと無責任な言葉だろうか。私がこれまでどれだけ苦労してきたのか知らないくせに。この時の私には猛烈な怒りしか生まれなかったことをよく覚えている。
それから私は人が変わったように活発な性格になった。リーダーを進んでやり、友達作りに勤しんだ。おかげで、みんなが中高で経験する人間関係のいざこざに、大学生になってやっと仲間入りすることができた。
初めて友達に愚痴を言ったし、SNSに悪口を書かれたりもした。それでも非常にポジティブでいられた。私はこれまで、そんなことを言われることもないくらい存在感がなかったのだから。
そんな問題が起きるだけの人間関係を構築できたということを意味するからだ。やっと訪れた青春の対処に日々追われてはいるが、半分楽しみながらコミュニケーションを勉強している。

髪が持つ不思議な力。私は今、笑顔の絶えない毎日を送れている

一回泣きながら「髪は女性の命だ。お母さんが縮毛矯正やらせてくれなかったから私は!」と訴えたことがある。母は何も言わなかったが、隣で聞いていた父は嘲笑った。
「パーマの方が良かったのに」「あの時、まだ受験控えてるのに縮毛矯正かけに行っててびっくりした」こう友人に心ない言葉をかけられたこともある。あのニヤニヤとした表情と笑い声に今でも傷ついているし、おそらく一生忘れないだろう。
私は別に好きで天然パーマに生まれたわけじゃない。それなのに年に数回、2万という高いお金をかけ、化学の力で髪の毛を傷め抜いて、美しく真っ直ぐなストレートにしている。これは生きる土俵に立つためだ。私にとっては、これでやっとスタートラインなのである。

もし周りに縮毛矯正をしている人がいたらそっとしておいて欲しい。もしかしたらその人はふとした言葉に傷ついているかもしれないから。
髪というのは不思議なもので、女性の性格までをも変える神秘的な力を持っている。私は髪をストレートにしてから笑顔の絶えない毎日を送れるようになった。
この場を借りて、人生を変えてくれた美容関係者には御礼の言葉を伝えたいと思う。