小学校高学年から中学生にかけての頃、鏡と私の関係性のバランスは崩れていた。

鏡は不思議な存在である。自分とそっくりの姿が映るのに、左右反転の世界が広がる、多くの人の生活からは切り離せない存在。このサイトの名前にも縁を感じたので、今回は鏡と私の話をしたい。

家では数十分おきに鏡を見つめ、外では鏡を見ることすらできなかった

家にいるときの当時の私は鏡に執着していた。手鏡を机の引き出しに入れておいて、暇さえあれば取り出して自分の顔を映し出していた。特別なきっかけがあったわけではないけれども、世の中には可愛いといわれる顔と、けなされ排除される顔があるのだ、ということに気が付いた頃だったのだろうか。
自分の顔をずっと眺めていたいほど好きだったとかではなく、むしろ正反対であり、自分の容姿に自信がなく、とにかく自分の顔を逐一確認しないと気が済まなかった。醜形恐怖症までひどくはないけれど、強迫観念のようなものである。数十分おきに鏡を見つめ、不安感に煽られる日々だった。

逆に家の外ではまったく逆だった。美容室の鏡どころか、お手洗いの洗面所の鏡や窓ガラスに映る自分の姿をちらとでも見ることすらできなかった。見た目を気にしていたくせに、それを気にしていると誰かに思われることが、恥ずかしかったし怖くて仕方がなかった。周りには堂々と鏡の中の自分の姿を見つめ、お化粧を直したり髪を整えたりする人がいくらでもいたというのに、いつも鏡から目を背け、そそくさとその場を立ち去ったものだ。

いつも綺麗な身なりをしたいという思いは自然な感情のはず

転機は高校入学後である。昼休みにお手洗いで手を洗っていると、隣に友達が来た。彼女は私に声をかけ手を洗った後、隣に私がいるにも関わらず、非常に自然な流れで鏡を見てリップクリームを塗り直し始めた。
最初は、え、これって見てもいいのかな、と驚き少し戸惑ったが、身だしなみを整えていつも綺麗でいたいという思いは、誰にとっても持つことを許された自然な感情であり、決して恥ずかしいことではないのだとはっと気が付いた。だいたい、いつも綺麗な身なりをして、明るい気持ちで過ごしたいという私の願いを止める権利が誰にあるというのだろう。

そして、勇気を出して学校のお手洗いという場でありながらも、初めて家の中にはない鏡をのぞき、自分の姿を見つめることができた。よそゆきの表情は少しこわばっていたが、なんだ、私できるじゃん、と自分の中に大きな変化が起きた気がした。

その後は、外出先に鏡を適度に確認できるようになったせいか、身だしなみにはよく気を遣うようになり、容姿だけに留まらず、心の中に自信も生まれた。

鏡との関係はいたって良好。禁断症状も無し

今となっては人前で鏡を見ることにも特に抵抗は無いし、家にいると丸一日鏡を見なくても平気で過ごせるようになった。鏡との関係はいたって良好。禁断症状も無し。
「見た目」に関する話題が増えてきている今、鏡と自分の関係を振り返ってみるのも面白いかもしれない。