「かがみよかがみ」、こちらのメディアには、いわゆる読み専の方もたくさんいらっしゃると思うのだが、私は読みもするし書きもする。文章を投稿する度に、他に行き場のない感情を1500字で言語化する機会を得て、まるで脱皮をするかのような、スッキリつるりとした解放感を味わっている。
フィードバックで引っ掛かったのは、「こだわり」というフレーズ
先日私がこちらで投稿した「クリスマスコフレ」に関する文章も、もちろん他の文章と同様に、編集部の方とのやり取りを経て配信に至ったものである。内容はというと「また今年もモタモタしていたらクリスマスコフレが買えなかった」というただそれだけの話(冷静に考えたらこのテーマゆるすぎ…?)。
まあその内容は、今は気にしなくて良いのだ。今したいのは、編集部の方から頂いたフィードバックの一部が、なんだか私の胸に引っ掛かっているという話。以下抜粋。
『何気ない日常の中のこだわりや、ともすると流れていっていしまいそうなささやかな出来事をすくい上げて』
…お褒めいただき恐縮である。そして恐縮したままに、私が引っ掛かった部分をここで発表させて頂くと、それは「こだわり」というフレーズなのだ。
この文章において、私は「クリスマスコフレが買えなかった」という話を書いた。はて、編集部の方はこの文章を読んで、私の中のどんな「こだわり」を感じとって下さったのだろうか……私が生活する中でコスメに関して大切にしている「こだわり」って、なんだろう??……ちょっとすぐには、言葉にならない……。
あなたは「生活の中でのこだわりは何かありますか?」と聞かれて、パッと答えられるだろうか。私は答えられない。人様に「これがこだわりです!」とハキハキと説明できる程のこだわりは……えっと、ないです……。
……なんだこの「短所が分からないところが短所です」みたいな、面接で落とされる事確実の不毛な回答。これはよくない。よくないと思ったら、考えるしかない。なんで私は自身のこだわりを語れないのだろうか。
局所的に深掘りする「こだわり」と、フワッと考え続ける「こだわり」
今(急)、私の中で生まれた仮説なのだが、「こだわり」って、濃淡がある様な気がする。爪の先程の事を局所的に深掘りするようなビビッドな「こだわり」と、手のひらに乗る程の事をフワッと考え続けるようなパステルカラーの「こだわり」。それらが重なりあって、その人の価値観を作り上げているのではないだろうか。
例えば私は、最近「28歳の女」である自分を意識するようになってきた。これにはハッキリとした形はないけれど、今の私の価値観の外側をぐるっと囲う、大きな枠組みになっていると思う。
そしてその枠組みの中に、「外見」や「中身」といった中くらいの縁取りの事柄、「ファッション」や「コスメ」といった小さな縁取りの事柄が存在し、それより更に細かい線で縁取られた事柄として「クリスマスコフレ」も漂っている。それらは全て、私の「28歳の女」という枠組みのなかで、浮き沈みを繰り返して漂っている。
それらの事柄は常に、濃淡や距離感を変える。中心に近寄ってきた時は濃くなって、生活への影響も強くなり、言語化しやすくなる。端っこの方まで流れてはぐれていったものは、ぼんやりと薄れていって掴み所が無くなり、誰かに語ることも難しくなってしまう。
しかしそれらの異なる事柄に共通しているのは、その全てが私という「28歳の女」に含まれているということだ。
今のところ、私の中で「クリスマスコフレ」という事柄は、とても薄い色をしている。秋口になると、私の中心にフヨフヨと近寄ってきて、年末には遠ざかっていく。そして私はそれに対して『デパコスを普段からライン使いするような、美の女神にこそ良く似合う物であって欲しい』みたいな勝手な思い込み?を抱いている。だから、目を凝らしてよく見てみると、光り輝いているということだけは分かるのだ。
現状私の「クリスマスコフレ」に対する認識はこの程度。それは希少価値、値段、情報源の片寄りなどによって、私の中で勝手に縁取られたもの。そしてこれはこのままで1つの「こだわり」であり、「28歳の女」の価値観の一部なのだ。
SNSの浸透やメディアの普及によって、私たちは簡単に、会ったこともない相手の「こだわり」を知ることができるようになった。一見ミステリアスに見える人が、実はネット上で色鮮やかな「こだわり」を撒き散らしているなんて事も、往々にしてあり得る令和である。私はこのオープンかつクローズな時代を生きる中で、なんだか勘違いをしていた。
「こだわり」は必ずしも、「語りだしたら止まらない、実用的で細かい情報」とセットである必要はないのだ。
それこそ就活の面接ならば、職業に関する「こだわり」はしっかりと言語化する必要がある。また、SNSやYouTubeにおいてバズるかどうかという観点を重視するならば、情報は細かく、知識は豊かな方がいいだろう。しかし私が今触れているメディアは「かがみよかがみ」。フワッとしたテーマや、ゆるっとしたニュアンスの文章があったっていいのだ(多分……)。
色が薄くて離れた場所にある事柄を、そのまま漂わせておけばいい
ここで、フィードバックで頂いた文章に帰ろう。
『何気ない日常の中のこだわりや、ともすると流れていっていしまいそうなささやかな出来事をすくい上げて』
……。最初から『何気ない』って書いてあるし、『ささやか』とも書いてあるじゃないか。既にそこには、答えが示されていた。『何気ない』と『こだわり』は、接続しうるという結論が。まじか(唖然)。
何気ないこだわりやささやかな出来事。それはいわゆるインフルエンサーやプロフェッショナルが、あまり発信しない部分。その様な、色が薄くて中心から離れた場所にある事柄を無理に引き寄せず、それをそのまま漂わせておけばいいというのは、一般の人間の特権なのかもしれない。私の価値観はパキッと細部まで塗り分けられたビビッドカラーのそれではなく、フワフワと重なる、パステルカラーのグラデーションで彩られた『何気無い』ものの集合体なのだ。
私が「28歳の女」という枠組みの中からすくい上げた「クリスマスコフレ」に関する、薄い色をした「こだわり」。当面の間、この「こだわり」は1年周期で私の中心に若干近付いては離れる、そんな公転を繰り返すことだろう。来年は急接近してきてド派手な色をしている可能性もあるし、気付いた頃には沈んでしまっていて存在すら忘れられている、なんて可能性もある。まぁそれは、1年後のお楽しみだ。
私はこれからも「かがみよかがみ」に何度か文章を投稿をすると思う。今後新たにすくい上げる「こだわり」も、またもやフワッとしているかもしれない。ほとばしるような情熱や実用的な情報はそこに含まれてないことがほとんどだろう。
しかし、文章を1つ書き上げて、会ったことのない編集部の方とやり取りをする度に、私の価値観は少しずつ輪郭が明瞭になり、強くしなやかになっていく。また、同じように柔らかいグラデーションの価値観をもつ、どこかの誰かに、私の文章を読んでもらえたら。そんな風に今から願うのである。
この12月、もうすぐ誕生日を迎えて「29歳の女」になる私が、30歳になるまでの期間は、あと1年だ。