いったい“ふつう”って何なんだろうか。“ふつう”が苦手だった私がファッションを通して“ふつう”を試したら楽だった経験、そしてそこから“ふつう”をやめた経験を記そうと思う。
自分で服を選ぶようになると、目立つ赤・黄色・緑の原色ばかり
私は物心がついたころから“ふつう”が苦手だった。きっと単純に目立つことが好きな子供だったのだと思う。母が服を選んでくれていた頃は、いわゆる“ふつうの女の子”だった。ゆるいくせ毛の髪を腰まで伸ばして、ピンク色のフリフリの服を着ていた。(ふつうより少しラブリーだったかもしれないが。)性格も周りと調和をとれる“ふつうの女の子”だった。ところが、自分で服を選ぶようになると、赤・黄色・緑の原色ばかり。目立つカラーが大好きだったし、自分によく似合っていたので無意識に選んでいた。母も実はピンクより原色が似合うなぁと感じていたようだ。
そこから10代はほとんど原色の服ばかり。メイクだって、「そんなパッとする発色のリップやアイシャドウどこで見つけたの~?」と驚かれるほどカラフル。その頃には“ふつう”でないカラーを意識的に選んでいた。それはこんな気持ちがあったから。
結局のところ“ふつう”は他人目線。自分目線ではない。ふつう”に縛られて動けなくなるのが嫌だったし、他多数に埋もれるのが悔しかった。
だんだん“ふつう”でない自分を演じているように思えてきた
少し意地になっていた部分もあったように思う。そんな“ふつう”ではないカラーを使う私はいつも自分らしくいられたし、私自身を分かってくれる大切な親友もできた。今でも大切な存在だ。きっと、私の事を「変わってるなぁ」と思っている人もいたと思う。それはそれで別に気にもならなかったが。
しかし、だんだん“ふつう”でない自分を演じているように思えてきた。何かを選ぶときも、「どちらが私らしくて好き」ではなくて、「どちらが“ふつう”ではないか」で選択するようになってきてしまった。自分自身の性格も“ふつう”でいてはいけないんじゃないか。“ふつう”でいては私らしくいられない。そんな思いがずっしりと重荷に感じるようになった。
でもどうしても、明るく茶色に染めた髪をクルクル巻いて、当時流行っていた花柄のワンピースに太ベルトの女子や、高めの位置のふわっとしたお団子に全身ふわふわの森ガールたちにどうしても埋もれたくなかった。すごく可愛いと思っていたし、どこかで真似したいという気持ちはあったのだが。
こうなってしまうともう何が何だかわからない。服が買えない。髪型も迷子。いったい“私らしい”って何?“ふつう”って何?
プライドを捨てて真似てみた。こんなに楽なんだと思った
どうして良いのかわからない私は、とりあえずネットで髪型、服、メイクの人気ランキングを見てみることにした。そして、プライドを捨てて一旦そのアイテムを真似てみることにした。
「あぁ、すごく楽だ」自分で選ばなくていいってこんなに楽なんだと思った。みんなが使ってる“ふつう”を選ぶだけで、私も“ふつう”の人間になれるんだ。一度“ふつう”になってしまうと、その楽なぬるま湯にどっぷり浸かってしまって抜けられない気分になった。
周りもなんだか褒めてくれるようになった。「今日のメイクいいね」「前の髪型に戻さないほうがいいよ」そりゃそうだ。だって人気ランキングをそのまま真似してるんだもん。世間一般の“ふつう”だもん。
ああ、でもなんだかつまらない。私らしくない。というか気分がのらない。別に褒められる為に“ふつう”を選んでいるわけじゃないし。私自身の性格は“ふつう”には染まらなかったみたいだ。
ある日私はなんとなく、久しぶりに昔使っていた真っ赤なリップを取り出してみた。“ハッ”と目が覚めるような発色。急に肌の色が明るく見えた。そこから、慌ててゴールドのピアスや緑のニットを取り出した。眉毛も指で擦って一度書き直して、アイラインもはっきり書き直してみた。
“ふつう”を抜けた瞬間。これが私の顔だよ!!心からそう思った
「これだ!!!」
似合う!テンションがあがる。目がキラキラして見える。これが私の顔だよ!!心からそう思った。“ふつう”を抜けた瞬間だった。
“ふつう”。それは、私にとってすごく楽な存在だった。選ばなくていいし、嫌なことを言われることもない。ただ、私はそこに“トキメキ”を感じられなかったし、私の性格は“ふつう”には染まらなくて、外と内がちぐはぐになって退屈だった。好きなものを好きなだけ。そう選んだ方が自分らしくいられる気がしたし、周りの事も認められる気がした。
でも、無理に“ふつう”を避ける必要もない。結局のところ“ふつう”は他人目線。自分らしく自分の基準でいられたら毎日が“トキメキ”で溢れるのかなと思う。