わたしの母親は去年2019年の7月29日にこの世を去った。
享年は、たしか63歳。あやふやだ。母親が死ぬ瞬間に立ち会うことはできなかった。わたしはその時東京にいた。
母親は地元にいて、危篤だと連絡を聞かされて、すぐ帰ろうとしたが2時間後に死んだ。まだ「もしも」の時を考えて、喪服はどうしようとバタバタ準備しているときだった。
わたしの癌で離婚は延期になったものの、母は日毎にぶっ壊れていった
わたしの母親はダメな人だった。お金の管理ができなくて、掃除もろくにできなくて、たばこもやめられない人だった。
正式に両親が離婚をしたのは、中学校1年生の時だった。本当はもっと前に離婚をするつもりだったけど、わたしが癌になったため、成人するまでは離婚をしないと決めたようだった。
わたしは昔から父親派で、保育園児の時に離婚の話を聞かされ父親が家を出ていくと言ったとき、母親が出ていくと聞いたときよりも大きい声で泣いたのを今でも覚えている。
わたしの病気がきっかけで両親の離婚は延期になったが、母親はぶっ壊れていった。お金のずさんな管理(すなわち借金)と、父親の不倫を疑った。不倫の根拠なんてなくて、ただ一方的にヒステリックに父親を叫んで罵った。
わたしはその言動が怖すぎて、「お母さんから生まれてきたくなかった」と言ってしまった。その時は母親に失望していた父親でさえもさすがに怒った。
離婚後、母は余命半年の癌になり、何度か会ったもののすぐ疎遠に
そんな手におえない言動が多々あったこともあり、両親は離婚し母は家を出た。離婚後しばらくは家の前に車を停めたり、わたしが家でゲームしていると後ろに母親が立っていたこともあった。
時間が経つと、母親も新しい生活を始めたのか、わたしや家族の前に現れることはなかった。高校に通っていると父親と母親がいることは極当たり前のことのように聞かれることもあった。「離婚した」というと「いまどき離婚なんてふつうだよね」って言われたこともあった。
私の心には「ふつうって何?」と違和感が波打ったけど、その後とくに何の感情も出てこなかった。
父親が立派に育ててくれたおかげで、わたしは大学生にも通えた。
大学2年生のとき、「母親が癌らしい」という連絡があった。余命は半年。「残された時間、子供に会いたい。」という言葉も添えられていた。わたしは帰郷のタイミングで会いにいった。元から太っていた母親は病気のこともあり痩せていた。その時は病気を実感はしたが、わたしは母が「病気であること」「余命が半年であること」何を聞いても、驚きはしたがその後何の感情もなかった。
「あーいなくなっちゃうんだ。」
それだけだった。
残り少ない時間で母親が東京に来たいと言い、姉と2人で会った。彼女に会えたのはよかったけど、そのあともすぐ会わなくなった。
母の死後、周りからの悲しい顔に私もあわせなきゃいけないのか
余命宣告された母親に会わなくなったことはふつう、親不孝なだめな子どもと言われるのだろうか。
それから余命の半年が過ぎ、母親は生き続けた。同時に、いつの間にかわたしも社会人になっていた。
そして余命半年と言われてから、母親は4年後に死んだ。死ぬ前も、お金の管理はずさんだったし、掃除も一切出来ていなかった。
死んだと訃報をうけてから4日間休み、仕事に復帰した。東京に戻ると、みんな「母親を若くして亡くした人」「母親の死に目に会えなかった人」と心の中でわたしを思いながら悲しそうな顔をしてくれた。でもわたしは、悲しいなんて思わなかった。「母の存在がなくなった。」それだけしか思えなかった。
「(ふつうは)悲しいものでしょ、母親を亡くしたもんね。」そんな言葉が聞こえてきた。
悲しみを感じられないわたしは子供失格なのだろうか。
悲しそうな顔をされるのが嫌だから、母の死は一部の人にしか伝えていない。悲しみも「ふつう」に合わせなきゃいけない気がして。
いまは母の死をいつ悲しめるか分からないし、このまま悲しまないかもしれない。でも「お母さんから生まれてきたくなかった」と言ったのは、ごめんなさい。