悲劇のヒロインでもいいからヒロインになる。

私は、小さい頃から他の人が怒られていても自分が怒られてるように感じてしまい、クラスでも泣いてしまうことがよくある子どもでした。

なんでも怒られてる気がすることが、私の生きづらさです

最近になって、話題になっている事や、先輩から言われた事もあり、自分自身がHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)であると気づきました。

HSPっていうのは、気づいても生活にはなんら変化はありません。でも、HSPの思慮深さや、感じやすさって、言語化するエッセイにぴったりなのだと思います。

私の生きづらさは、なんでも怒られてる気がすることです。

私は現役の大学生で、現在絶賛卒論執筆中です。卒論執筆の指導にあたってくださる先生は、私の悩みを真摯に受け取りそして受け止めてくださるそんな大好きな先生です。HSP特性の高い私は、そんな大好きな存在には特に嫌われたくないと感じます。嫌われたくないと感じると、卒論指導中、私の卒論に対して、私だけ、ダメだと言われてるようなそんな気がしてたまらなくなるのです。「ここもう一回やり直してみようか」や「その辺まとまってないね」が「あー私全然だめだなぁ」と感じてしまい、私は優秀じゃなくてダメな人間、頑張ってないからだと思わされます。さらっと流すことができないのです。そうすると、一生懸命に私に指導してくださる先生に嫌われたくないと自分を責めていってしまいます。

昔からこう言うことはよくあり、指導されてることが、私にすごくきつく響きます。100求められているのに、自分には120求められているように感じてしまい、120で応えないと!と頑張り過ぎてしまいます。私のためを思った指導であっても、私からすると攻められてる怒られてると言う気持ちになるのです。これは、世の人は被害妄想、悲劇のヒロインと言います。

世の中には、物事をはっきり言う人は沢山います。そういう方が時に、愛情たっぷりな事も知っています。知っていますが、その、プレッシャーが人の何倍も感じてしまい、いつも私のせいで。や、私なんか、と思ってしまうのです。

自分より他人の顔色で生きてしまう。嫌われるのが嫌で、相談できない

そうすると、だんだん私も辛くなります。HSPというのは、厄介なもので、自分よりも他人の顔色で生きてしまうことが多々あります。悲劇のヒロインなのに、自分の人生の中では、ヒロインにはなれないのです。その辛いという気持ちも他人を気にし過ぎて、あまり人に話せないのです。辛いけど、誰々ちゃんの方が今大変だろうしな、話さないでおこう。今みんな就活で大変なのに私の悩みとか話してもしんどいだろうな。とか一人で思ってしまいます。
誰かに嫌われるのが嫌で、相談できないのです。すると、私は友達が一人もいないと思っていくのです。
多分私のことを好きでいてくれる友達はいるのですが、わかりもしない友人の気持ちや友人の忙しさを考慮してしまい、いつのまにか、ぽつんと一人でいる気がしてしまいます。自立とは、頼る先を増やすことだと、福祉の世界ではよく言うのですが、すごくそれは難しい。

その難しさは、他人にとっては、「考えすぎ」や「ほんま生きにくそう」に繋がってくるのです。

人一倍傷つき、人一倍周りの人を大切に愛してきた証だとも思うのです

よく、「エッセイ読んだよ、考えすぎじゃない?」と言われるのですが、考えずにいれる、さっと流せることがどんなに大切なことか自分でもわかってるつもりではいます。でも、その「考えすぎ」をやめようやめようと思うとそれはそれで、自分を全て否定してしまって、これはこれでしんどい。そもそも、「考えすぎ」ない事なんて、生まれてから今までできたことがないのです。

この「生きにくさ」は、私が人よりも人一倍頑張ってた証だとも思うのです。勝手にではありますが、人一倍傷つき、そして、人一倍周りの人を大切に愛してきた、今の自分が生きてきた証なのです。なんとも変な話ですが、この生きにくさがあったから、頑張って生きてこれたのだと思います。

そして、この生きにくさがあったから、今こうしてエッセイを書いているのだとも思います。

多分、今までがそうだったから、これからも私は「考えすぎ」る人生を生きるのだと思います。「考え過ぎない!」と宣言することは私が生きやすくなるために最良なのかもしれませんが、私にとっては私自身が生きることを否定した宣言なのだと思います。「考えすぎ」な人生だからこそ、将来そんなこともあったなぁと笑える日も多いのかもしれません。周りから見たら、悲劇のヒロインでも、毎日毎日考えそして傷つき、笑顔で生きていく、それがHSPを生きる私なのだと思います。そして、いつか、自分の人生でも、悲劇のヒロインでもいいから、ヒロインになれるように生きたい。これが私の宣言です。