普通とは、特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。
男の子は青色が好きで、女の子は桃色が好き。男が女を好きになり、女が男を好きになるのが“当たり前”の世界で、それを“普通”の価値観として受け入れて生きる、らしい。
横浜中華街の占い屋で初対面の人に自分を暴かれた
「気分屋で、芸術肌ね」
「だけど、根性なしの甘えん坊なところもあるかも」
興味本位で入った横浜中華街の占い屋で、私の名前と誕生日だけしか知らない、初対面の人に自分を次々と暴かれていくのは興味深かった。
「喜んで!結婚運あるわよ」
「男は女を愛するために、女は男に愛されるために生まれてきたの」
途中、はて、と思う投げかけもあった。
私は、結婚が幸せなものであるとか、あたかも世の中を規律しているような普遍的な性別論が、それすらも多様な価値観のひとつであると認識しているからまだしも、そうではない人が聞いていたらムッと顔をしかめるに違いない。
占い師の発言も、淡い下心から来る「彼氏いるの?」だったり、何かしら可愛いと発言すれば「女の子はさ、みんなこういうの好きだよね」と返される事象も、突如やってくる、1ミリたりとも望んでもいない指先の触れ合いも、この普遍的な価値観に基づいて脊髄反射のレベルで交わされているものだ。
どうやら私という人間は、性自認が薄いらしい
私という人間は「私」であり、時に「私」ではないし、「ぼく」であり、ただしくは「ぼく」ではない。
どうやら私という人間は、性自認が薄いらしい。何故こうなったのか?と聞かれると氷山の深層にまで及んだ無意識下のものなので回答が難しいが、思い返せば小さい頃は、髪をすぐ切られてしまい常にショートカットで、ランドセルも黒、身に着ける服や装飾品は白か黒しか着させてもらえなかった。極めてニュートラルな存在として育てられていた記憶がある。
それ故か、周りの人がわざわざ確認しなくとも共有できてしまう“人間のあるべき姿”に溶け込み切れない。
その人のあり方が肉体的性別によってすべて決められるものではない。女性であるから、男性であるからと肉体的性差で“その人らしさ”を決めつけてしまうことで、いかに目の前にいる人と自分の可能性を殺してしまうのか。
みんながみんな、自分にとっての普通をぶつけ合う世界
占い師は、私が「もしかすると“女性”もしくは“それ以外”の言語化できない性自認をもつ人と恋仲であるかもしれない」とは微塵にも思わないのだろう。
20代、女性、社会人何年目…といった私という人間を構成する属性の一部を切り取り、拡大することで、私という人間が判断され弄ばれてしまう。
とはいえ、この普遍的な価値観も、多様な価値観のうちのひとつ。断罪すべき悪でも、倒すべき敵でもない。
みんながみんな、自分にとっての普通をぶつけ合う世界。ただ、その人の指す性別が肉体的性別のみを指しているのか、あり方すべてを指しているのか。そしてそれが例えば様々な価値観に触れて、揺れた結果そこに落ち着いたのか。はたまた、ただこの世の中を覆う大きな恣意的に塗り固められた価値観の箱にいると気づかずにいるのかは、些細ではあるが大事な違いだと思う。
いろんな人がいるから、いろんな形や色、においをした「好き」があって。それがもっともっと見えやすい世界になればいいなと思う。そんなの、普通だけど。
きっと「今」を生きる私たちは、我々の祖先であるお猿さんの時代から続いている種の存続のための性と恋愛のルールから、次の時代を迎える過渡期を過ごしている。
例えば、いわゆるヲタクと呼ばれる現実に生きる人間以外のキャラクターやロボットなどの機械を愛する人たちは、種の存続に必要な恋愛という仕組みを超えた、次世代の、新しく、創造的な恋愛の先駆者なのかもと思う。さて、そんな人たちつくる、この先にある世界はどんなものだろうか。