●ヒコロヒーの妄想小説:本日のお題「終電まであと5分」

「あと10分だけいよう」が言えなくて、口の中でうごめく

異常に元気のいい店員から、レシートとお釣りをテンポよく受け取る向かいの彼を眺めながら、あと10分だけいよう、と、そう言いたくてたまらないのに、そんな言葉がなめらかに口から出ていくわけもなく、いつも通りに喉元の少し下のあたりで文字列を崩して絡まりこんで、つっかえてしまっている。

「楽しかった、飲んだねえ」

そう言って満足げに笑う遼平に、咄嗟に「飲んだね、あのたこぶつ、ちょっと本当に美味しかったね」と、かろやかに返事をする。

他愛ない言葉だけは質量軽くぽんぽん口から出ていってくれるのに、どうして言ったことのない言葉というのはこんなにも重たいのだろうか、お腹のあたりに力を入れれば勢いよく弾みをつけて口から出ていってくれるのか、何を味方につけて何を諦めれば出ていってくれるのか、この言葉はどうせ私の口から出られることもないくせに、こうしていつも帰り際にざわざわと蠢き出してしまうから厄介なのだ。

「次は白レバーだな」

にっと笑って立ち上がった遼平は背後の壁にかけてあったハンガーからコートを取り外して素早く腕を通した。
目の前のテーブルの上には3時間程前に注文して食べきれなかった刺身の造り皿の上に、しなびたツマとひらめが二切れ残っていて、いっそ今からこれを食べ始めたらどうだろうかとくだらないそろばんを弾いてみる。

いつだって喉元の言葉はつっかえたまま、お腹のあたりへ流れ落ちる

「外、寒いだろうなあ」

そう言って店外のほうを見つめる遼平を見て、私は諦めるようにして立ち上がり、自分のコートを彼の背後の壁から取ってもらった。
本当は今年、もっと良いコートを買ったのに、どうでもいいような服を着ている時に限って誘われるのはどうしてなのか、日々の自分の徳の積み方が甘いのか、面倒でペットボトルのキャップを外さないまま捨ててしまうことから改めようと、ぼんやりと誓いを立てた。

「終電、40分だっけ?」

座ったままさっき羽織ったばかりのチェスターコートのポケットに両手を突っ込んだ遼平が既にやや寒そうにしながら尋ねてきた。

「うん、でも吉祥寺で降りても帰れるからもうちょいある」
「今日はラーメンいいの?」
「ねえ、朝まで飲んでたらラーメン食べたくなるだけで、毎度じゃないじゃん」
「いや夜に食べたいって言い出して聞かなかったこともあったって」
「うそ」
「野方で飲んだ時だよ、覚えてない?」
「ふふ、でも今はお魚で満たされてるから大丈夫」

ならよし、と遼平は言って、それを合図のようにして私もハンドバッグを持って席を立ち、二人並んで店を出た。
いつものことで、いつもの流れで、いつだって喉元の言葉はつっかえたまま、駅までの道を彼と、つっかえた言葉と、一緒に歩いて、そして一人で電車に乗った途端に、それはふわっと溶けるようにしてお腹のあたりへ流れ落ちていくだけだ。

男女の友情などと繰り返していたのに。愚かな私は気づいてしまった

同窓会で再会した3年前、私たちは互いに恋人がいて、でも自分たちは純然たる友人同士である、ということを一つの特権みたいにして、男女の友情などという台詞をはつらつと繰り返し、互いに恋人がいる時期でもいない時期でも2人きりで会うことをやめなかった。

そうして私は愚かなことに、この1年くらいで、きっと自分が遼平のことを男性として好きなのだという面倒な事実に気付いてしまい、そして気付いた時にはもう、純然たる友人同士、というこの特権は固くこびりついて今さら簡単には剥がれ落ちないものになってしまっていた。

横で歩きながら、やっぱ寒いなあ、と大げさに目をぎゅっとつぶる遼平の表情のせいで、また喉元がざわっと動き出しそうになって、慌てて鎮めるように小さく息を吸った。
今、少し腕を伸ばしてコートを引っ張ったら、立ち止まって思わせぶりに黙ってみたら、触ってみたら、帰りたくないと言ってみたら、そんな風に考えては、頭の隅の方から輪郭のはっきりした波が勢いよく押し寄せてきて、砂で描いた私のくだらない想像を綺麗さっぱりと飲み込み消し去っていく。

「あ、めっちゃきれい」
そう呟いた遼平が見つめる先には立ち並ぶ街路樹に飾られたかんたんなイルミネーションが光っていた。
「ほんとだ」
「俺、今年こんな近くで見るの初めてかも。ちょっと寄って行こうよ」
「電車大丈夫?」
「余裕」
そう言って遼平はずんずんとイルミネーションの方へ向かい出し、私はその後ろ姿を見ながら、どういうつもりなんだよ、と、悪態をつきたくなる自分を抑えて、ただついて行くしかなかった。

道を挟んで両脇にずらりと立ち並ぶ街路樹には細かな電球が少々雑に散りばめられていて、それを見上げる遼平が、目を丸くしながら楽しそうに、うわあ、とか、うへえ、とか、まぬけな声を出すそのたびに、好きなんだけど、と口の端からこぼれてしまいそうになっていけなかった。

この気持ちがこぼれてしまったらどうなるか、とっくに分かっている

気を正しく持ち直し、固くきゅっと口の端をきつく結び返しながら、横にいる私がまさか自分のことを好きだなんて露とも思ってないその態度に、不満と、そして妙な安心が、染みるみたいに体中に広がっていく。もし私が少しでも遼平のことが好きだということを気付かれてしまえば、きっと遼平は私を傷つけないためにと離れていく。思わせぶりな態度でいつまでも目の前に女を置いておくことを楽しみ、自分を好いてくれる女に安心感や優越感を抱くような性質の人間じゃないことなんてもうとっくに分かっている。

ごめん俺はそんなつもりじゃないと、申し訳なさそうに長いまつ毛を伏せて、ちゃんと言ってしまう、嫌になるほどに、そういう奴なのだ。遼平にとっての私は純然なる「女友達」で、それを自分から壊すような間違いを犯すほど私も無垢ではない。

そのカテゴリーに入り込むことが彼と自分を繋ぐ唯一の箱だということまでばかみたいにきちんと理解できてしまっている。それでも好き、と、両手を広げて大胆に詰め寄れるほどの青さもなければ、人知れずこの気持ちにしっかりと折り合いをつけられるほど熟してもしていない。ただ、目の前で静かに微笑みながら上を向いてちらちら鳴る光を見つめている遼平が、すごく好きで、喉の奥のほうがとんとんと細かい振動を繰り返してしまって、もうどうしようもないのだ。
「意外とあっという間に終わるんだな」
寒そうに肩をすくめてこちらに笑いかけてくる彼を見ていると、私が遼平に秘めたる感情を抱えていることがいけないことのような気がしてくる。

私だけが噓をついている。そぎ落として「健やかな女友達」になりたい

私だけ下心を持って遼平に会いにきていることが不埒で、私だけがずっと欺いて、嘘をついて、でもできるものなら私だって心臓の周りのあたりにこびりついたこれらをヘラで丁寧に削ぎ落としたいに決まっている。
好き、触れたい、帰りたくない、あと10分だけ、こんな気持ちを全部、意のままに削ぎ落とすことができたなら、私だって健やかに女友達として横にいることができるのにと、遼平ののんきそうなよこ顔を見てると、憎らしさすら覚える。

「あっ」

遼平が突然何か思い出したようにそう呟いた。

「終電やばい?」
「いや私はもうちょいあるけど、遼平55分でしょ?あと5分だよ」
「駅そこでしょ?」
「うん、一応走る?」
「あと10分だけ一緒にいようって言ったらどうする?」

咄嗟に顔をあげると、遼平は両手をポケットにさしたまま、片足を地面に擦りつつその足元を見つめていた。私の心臓がどん、と大きく揺れ、その振動を受けるようにして喉元につっかえていた言葉はゆっくりと蠢きだし、姿形を少しだけ変えて流れるように口からはらりと出ていった。

「あと15分だけ、にも、できる、かも」

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