「普通になりたい」は一時期、私の口癖だった。
あの時の自分が29年間生きてきた中で最も「独りだった」と思う。

クラスで一番可愛い女の子に「おはよう」と言うのにドキドキした

それは中学1年生の頃で、クラスで浮いていてほとんど友達がいなかった。
私は楽しく話せる友達が欲しかったし、移動教室に連れ立って行ったり、放課後に公園で遊びたかった。

しかし実際のところは、人に合わせることが難しかった。
女子トイレに誰かと行くのは気乗りがしなかったし、
つまらない話に無理に合わせて愛想笑いする自分が嫌だった。
加えて、人の顔色を伺ってばかりで、自分のことも信じていなかった。

不器用でうまく喋れないことに悩み、
人からどう見られるかとか、クラスの人間関係だとか、
狭く限定された世界の中で、もう
忘れたくらいどうでも良いことを毎日毎日考えていた。

具体的なエピソードで唯一覚えているのは、
クラスで一番可愛い女の子に一言、「おはよう」を言うのにドキドキした。
ただの挨拶なのに、勇気が要るのだ。
なんだかすごく怖かった。

「みんな」という集合体の一部になりたくて。ひとりではなくなるから

惨めな日々だった。

祈るように普通になりたかったのは、そんな自分ではなくて、
「みんな」と同じになりたかったから。
誰か特定の人ではなく、「みんな」という集合体の一部になりたかった。
そうすれば、ひとりではないのだ。
多数派というのは何よりも安心感がある。
「みんな」は私のような鬱々とした気持ちにはならず、
明るく楽しく幸せな中学生活を送っているのだ。

みんなと一緒であることが普通であり、=正しいという刷り込みは、
いつしか自分の首を絞めるように、不登校になった。
普通は便利な言葉だ。もしも、私が普通であれば、こんなことにはならなかったのに。

あれから15年以上が経過した。
普通になれないのなら、普通ではない人になろうと思い、何かを極めたくて、芸術を学び、アーティストになったのだが、いまいち振り切れずに奇人にはなれなかった。
なれたら楽だろうなあ、と微かな希望を抱くものの、その一線を越える何かが私には無かった。
普通と奇人の間でもがくような気持ちになることもあったけど、やっぱり私は凡人だった。
それでも、どちらかと言えばネガティブな面で「みんな」とはどこか違うのではないかと感じていた。

自分にとって居心地の良い「普通」を探し、そこへ行くのはどうだろう

時は過ぎ、歳をとり、アラサーになったあたりで、普通だとか普通ではないだとかがなんだかもうどうでもいい気持ちになってきて、普通へのこだわりが気づいたら溶けていた。
私と普通の戦いは終わったのだ。

もう、みんなと同じ「普通になりたい」と思うことは一切ない。
マイノリティ万歳だ!
相変わらず友達は少ないし、心の隅に中学1年生の時はつまらなかったな、
苦しかったな、という呪いのような残像は今でもあるけれど、
それさえも糧にすると約束しよう。

普通とは形のないものであり、私の普通と君の普通を比較することはできない。
魚であれば水の中で生きるように、鳥であれば空を飛んでいるように、見える景色がそもそも違う、別物だ。
絶対的な普通などというものは、存在し得ない。
という訳で、自分にとっての居心地の良い「普通」を探し、そこへ行ったらどうだろうか?
というのが今のところの普通への結論であり提案だ。
私は今、その途中を生きている。
そして誰かの「普通」を殺さないこと。

仮に、あの時の自分に会えるのなら、手を引いて大きく広い世界へ連れ出してあげたい。
それと同時に、普通になりたいと願った自分を、強く抱きしめる。
その気持ちをどこかに置いておきたくて、広げたくて、初めてエッセイを書いた。