「音訳」という言葉を知っていますか

「声に出して本を読んでいる」
という一文を見かけたとき、何を連想するだろう?
国語の授業で先生に当てられてダラダラと読む教科書の内容だろうか。声優たちが作る朗読劇を思い浮かべた人もいるかもしれない。

私は、本の情報を音声にすること。すなわち「音訳による声の本作り」を連想する。

音訳とは「なんらかの理由で活字や図表による情報を入手することが難しい人のために、音声に起こすこと」と考えてもらっていいだろう。情報を伝えることが大きな目的である。だから音訳されるものは本に限らない。新聞や広報誌、プライベートなものなら手紙や職場の資料など多岐にわたる。
主に視覚障がい者の方々のためにこういったことがなされている。

だが私は、音訳の勉強をやめようかと迷っていた。

「書かなくてもいい。嫌になったら寝る」と思いながら、ライティング講座へ

かがみよかがみのライティング講座を受けて、このエッセイを書き始めるまでは。

ひとまずどんなものかとライティング講座を申し込む。
とにかく気負ってしまうと参加することすらできなくなってしまうので、「書かなくてもいい。嫌になってら寝る」と思いながら、布団の中でタブレットを開く。

講座の中で用意されたシンキングタイムの中でエッセイを書かずに、講師の2人の会話をラジオ感覚で聴きながす。
その中でシンキングタイムの度に受講生の質問に対する答えとともに出てくる話があった。

「論はいらない。エピソードが読みたい」

あなたが何を考えているかではなく、あなたがなぜそう考えるようになったかの経緯が知りたい。
独りよがりな自分語りでなく、その文章だけでその人となりや情景を想像させられるものが読みたいと。

「論はいらない。エピソードが読みたい」わかっているけど…

物は試しと書き始めてみたら、案の定「論」だらけになった。自分でもわかる。
私の考えていることが独白のように列挙されている。かと言ってその考えに至るまでの決定的なエピソードは全く思い浮かばない。
もともと書かなくてもいいと思ってたし、書かなくてもいいやと投げ出そうとした。

そのとき、ふと思った。
「表現することより、伝えることが求められているのではないか」と。

コロナ禍の前は10年以上、芸能活動をしていた。しかしコロナで全ての活動が停止すると同時にその分野への興味も失い、芸能活動をやめた。

「伝える」は「表現する」のさらに一歩深いところにあるのではないか

芸能というのはいわゆる「表現」の世界だと思う。
そこにあるものが何であるのかわからなくても、誰にどう解釈されようと構わない。
極端な話、独りよがりでも許される。持論だけが列挙されている読み手に伝わらない文章でも「表現」としては認められる。

ただ「伝える」となると話は別だ。
相手が理解できないものは意味をなさない。コミュニケーションとして成立しない。的確に情報を渡すことが求められる。
「伝える」ということは「表現する」ことから、さらに一歩深いところの話になってくるのではないだろうか。

表現することには飽きた。今度は伝えることを追求しよう

音訳も同じだと思った。
ただボソボソと教科書の物語を惰性で読むだけなら誰でもできる。
しかし教科書に書かれている物語を情報として的確に相手に渡すとなると話は別だ。

改めて自分のやってきたことの奥深さに気付く。表現することには飽きた。今度は伝えることを追求しよう。

音訳者になって、声の本を届けたい。
それが私も2021年の目標になった。