生の、目の前で展開する演劇が好きだ。

その時の、場の空気感、来るお客さんによってキャストの芝居のノリ方が違ったりする。初日と、真ん中と、千秋楽でも表情が違ったりして。

演劇は生き物のように毎回変わり、予想外のハプニングもある

観客が舞台を見ている時、演じる側も観客を見ているのだ。大きな舞台においては座席が赤いことが多々ある。あれは、キャストの高揚感が増すからだと、大学の先生にきいた。
観客によっても反応が違ったりする芝居もある。よく笑う観客なのか、じっくり腕を組んで見る観客なのか、それによって演者のテンションが変わったりすることも、非常に面白い。

ハプニングもある。
キャストがセリフを間違えたり、音響が上手く流れないなんて時も、生の演劇にカットはない。その場の、そこにいる人達でアドリブにしたり、セリフを言い替えたりして軌道修正していく。

ほとんどの客は気づかない、それも素晴らしい技術だ。別の公演と照らし合わせて気づいた時は高揚感に浸る。「うお!そう来たか」と。毎公演、同じ戯曲であっても、演劇は変わる。演劇は生き物のように予想外の時がある。スタンディングオベーションが鳴り止まない終幕は、素晴らしい瞬間を目の当たりにしたと鳥肌も総立ちである。

私は舞台の美術セットのデザインや衣装の制作をする仕事をしていた。(本来は現在進行形だが、現在仕事がない)
裏側で、台本も全て知っている中、そのハプニングの現場に立った時、分かる、焦る。
しかし、裏方である以上できることは少なくて、何も出来ないことをモヤモヤした気持ちで、しかし祈るような気持ちで次の展開を待つ。「ああ、そこのセリフとそこを繋げて、なるほど、遜色ない…!」。上手くいった時の安堵と安心感は半端なものではない。

歌劇で衣装スタッフをしていた時の話だ。

次にスターが着用する衣装を準備していたら、下級生が舞台からはけると同時に衣装にダイブしてきたことがある。見事にジャケットの襟にキスマークが付いてしまった。スターがこの曲を歌い終えるまであと2分しかない。
冷や汗と、焦りが楽屋中を駆け巡る。
すぐさまベテランの衣装スタッフたちは、キスマークの着いた衣装にビニールテープを貼り、それを剥がしだした。きれいに赤いルージュのみがトゥルンと落ちた。神業だ。

曲が終わり、スターがはけてきた。
何事も無かったように、ぬいだジャケットを受け取り、脱いだパンツを後ろにほうって、アイロンの当たったシャツ、綺麗に角のたったゴールドのパンツを履かせ、蝶ネクタイをし、ベストを着て、あのジャケットを羽織る。もちろんジャケットにキスマークなんてなかったかのようだ。浮気?なんてミスも、舞台上では見えない。いや、見せない。
扇風機の風を浴び、きれいに髪の毛を整えスプレーで再び固めると、スターは羽を背負ってまた舞台へと舞い戻る。この間たったの5分。

ラインダンスが終わったとともに、階段上部からスターがおりてくる。
会場の熱が一気に上がるのが分かる。
そして、衣装室では安堵したようにフーッと上がった緊張が冷めていく。
舞台は生き物だ。

セリフにもない心の移り変わりが私の脳内で再生され、心揺さぶられる

昨今、コロナ禍の影響を受けて、多くの演劇が形を変えた。
中止となった公演や、オンライン配信した公演、延期し対策を万全とした上で行った公演、また、この状況を逆手に取った演劇もある。

壁の覗き穴から人の人生の一部を覗く仕掛けになっている演劇、オンライン上でオムニバス形式の3つの芝居をYouTube、Zoom、ツイキャスの3種類の媒体から同時上映した演劇、キャストのマスクさえ衣装としてしまった演劇。

抑制の中で、新しい動きを見せるのは、出雲阿国から派生した見世物が歌舞伎として男性演劇となって移り変わった形からみても、当然の進化かもしれない。

しかし、やはり演劇は生に限る。
先日、3階建ての一軒家を演劇空間にした劇場にて、『面談室A』という芝居を観てきた。私も緊急事態宣言下でZoom演劇に出演したりはしていたが(裏方なので初出演だった)、それを除けばおよそ9ヶ月ぶりの舞台観劇だった。
その劇場は建物の3階だった。決して広くはない部屋で、観客も数人しか入れない。聞いた話によれば、そこはもともと寝室だったらしい。

しかし、その空間はある瞬間は自転車が走る夜道となり、ある瞬間は女性の一人暮らしの部屋になった。そしてほとんどの場面をオフィスの一部屋『面談室A』として、なんの変哲もないどこの会社にでもあるような一室となる。
演劇はすごい。セリフと言葉と動きが、そこにある数少ない物ものを自由に想像させ、空間が目の前に現れるのだ。部屋の窓をあけるシーンは、換気のためだったろうが、すごく意味のある間にもなった。
演劇を見る時、そこに描かれていない、セリフにもない心の移り変わりが、私の脳内で再生される。「こうなのかもしれない」「この場面に似ている」、自己の経験とも呼応し、ひどく心が揺さぶられる。

そして、『面談室A』は、まるでコンサートホールかのような美しいシーンで幕を閉じる。 「ああ、綺麗だな、美しいな」「ここに繋げるために、あのシーンとあのセリフがあるのか」。音響が鳴り響いて、自分がその空間の一部になっている。芝居の形式上、大きな音での拍手は出来なかったけれど、いいよと言われたらスタンディングオベーションしたかったくらいだ。鳥肌も総立ちだった。

いつか「あの時は大変だったなあ」なんて、武勇伝にして語れる日まで

演劇はなにかと、目の敵にされる。
有名でなければ、やる意味さえ無いようなことを言われる。

でも、ここに、この小さな劇場の中に、たしかに心を揺さぶるものがある。
生でしか感じれない瞬間が、一生目に焼き付いて離れない情景が、悔しくて悲しくてどうしようもないときの心の拠り所が、ここにある。
だからこそ、苦しい状況でも、止めては行けないのだ。

薪をくべろ。火を消すな、小さくとも、火を灯し続けろ。演劇を、芸術を止めるな!止まるな!!

いつか「あの時は大変だったなあ」なんて武勇伝にして語れる日まで、笑って語れる日まで、生き続けなければ、生き続けて、生き物としての生を全うし続けて。
その一部になれたら最高だわ。