「まさに女の子だよね」「マリア様みたい」「育ちがいいんだね」私が学生時代、友人によく言われていた言葉だ。たしかに私はスカートやワンピースが好きだし、可愛い小物も好きである。外見だけで判断すると「女の子」のイメージにぴったりなのかもしれない。
幼少期から「女の子らしい」というイメージだけが先行した
幼稚園の頃、私はおままごとよりも外でおにごっこをしたり、鉄棒で遊ぶことの方が好きだった。しかし友達からは「今日もおままごとするよね?」と言われ半ば強制的に私がおままごとをする事が決まっていたのである。
「本当は外で遊びたいのに」と内心思いつつも、「うん!」と返事をしてみんなとおままごとをする、そんな生活を送っていた。
「女の子らしいもの」が好きであったが、やる事は活発で決しておしとやかな子供ではなかったのである。
しかし私の好みによる外見によって、「女の子らしい」というイメージだけがついてしまったのだ。
「らしさ」に抵抗した時期もあったけれど、違和感を感じてしまう
中学生になり部活を選ぶ時にもこのイメージは私を困らせた。「女の子だから吹奏楽部か手芸クラブだよね」と言われたのである。
実際私がやりたかったのは外で思いっきり走り回るテニス部だったのだ。
「うーん、テニスやりたいな」私のこの発言で周囲からは耳を疑ったかのような反応をされた。結局私はテニス部に入部したのだが、周囲からは「なんかいつものイメージと違う」と批判がたえなかった。
私は髪は長い方が好きだし、パンツスタイルよりもスカートが好き、ピンクだって好き。だけど、女の子らしいおしとやかな子ではないし、お喋りだってよくする、外見と内面のギャップが大きいのである。しかし外見があまりにも女の子らしいので、周囲からは「外見内面全てが女の子」と認識されていたのだ。
当時は「女の子らしいね」と言われることに対して葛藤もあった。自分の全てが女の子でならないと強く思い込んでいたからである。長い髪をあえてショートにしたり、好みではないパンツスタイルにしてみた時期もあった。しかし、それは自分の中でしっくりこなく嫌気だけがさしていた。
「らしさ」に縛られていた私が、「らしさ」を喜べるようになった
私がこの「女の子らしさ」を求められている事に対して抱いていた葛藤がなくなったのは、大学時代である。大学時代、私はロンドンへ留学してロンドンの大学へ通った。その時の衝撃は大きく今でも鮮明に覚えている。ロンドンでの友人は外見が女の子らしい私に対して「女の子らしさ」を全く求めてこなかったのである。
私がアクティブな行事に参加しても「いいね」と言ってくれたり、スポーツ観戦なども誘ってくれた。この経験が私の考えを大きく変えるきっかけとなり、「私は女の子らしいものが好き、でも女の子らしくしなくてもいいんだ」と思えるようになったのだ。
帰国後は「よく喋るね」と言われても「私お喋り好きなの」と笑顔で返せるようになった。以前のように「おしとやかにしなくてはいけない」という自分自身への縛りを解き放つ事が出来たのだ。
そして「女の子らしいね」と言われた時も「ありがとう」と素直に喜ぶことが出来るようになった。
私は今も可愛いものを見ると気分が嬉しくなるし、幸せになる。メイクもファッションも好きである。「らしさ」に縛られていた自分が嘘のように「らしさ」を楽しむことが出来るようになった。私は今日も「女の子らしいね」と言われ「ありがとう」と答えるのである。