「もし、『みにくいアヒルの子』の母親アヒルが、白鳥の雛が灰色だという事を知っていたら、白鳥の雛は辛い思いをせずに済んだのではないだろうか?」

お風呂上がりに髪を乾かしている時に思いついて始まった、壮大な分析

少し前の夜。お風呂上がりに濡れた髪をドライヤーで乾かしている時にふと、こんな事を思いついた。そこから私の壮大な分析が始まる。
「白鳥の両親の事情は分からないが、わざとアヒルのもとに置いて行ったのならある意味ネグレクトじゃないか?」
「自分の子どもだと思い込んでいたにせよ、周囲の声に耐えながら白鳥の雛を育てた母親アヒルが辛かったのも無理はない。育児疲れもしてしまうだろう」
ぽんぽんぽんぽん、と何とも夢がない分析が進む。作者のアンデルセンが聞いたらどう思うだろう。まるで昼ドラじゃないか、と苦笑いされそうだ。幼い頃は「皆から酷い事を言われてかわいそう」と白鳥の雛に同情していた素直な子だったはずなのに。我ながらなんて捻くれ者になったのだろう、と思わず私が苦笑いしてしまう。そうして、私の壮大な分析は、ある結論に辿り着く。
「母親アヒルは『大人だって不完全だ』という事を体現している」
この結論に至った時、苦手な数学の難問が解けたようなスッキリ感が沸いた。「子どもの手本になるように」「ちゃんとした大人になってくれ」これは当たり前のように言われた事。当たり前すぎて、真っ当な大人になる事がこれからの人生の流れだと思っていた。しかし、それは母親アヒルの登場によって覆された。そもそも「ちゃんとした大人」って何だ?何をもって「真っ当」なのだ?

大人の価値観が全て正しいわけではないのに、いつのまにか縛られて

子どもの頃は、両親をはじめ周りの大人が世界の全てだった。真っ白なキャンバスのような私に、大人たちはクレヨンとなっていろんな絵を描いてくれた。絵の良し悪しは大人たちが決めてくれる、その時はそれで良かったのだ。白鳥の雛が「自分はアヒルだ」と信じて疑わなかったように、私の世界は出会ってきた大人によって作られていた。
大人によって作られた価値観は、当たり前のように私の価値観となった。子どもの頃に出会った大人がたまたま両親や祖父母であり、たまたま通った学校で出会った先生であり…。出会ってきた大人の価値観が全て正しいわけではないのに、いつのまにか縛られていたのだ。
そうして年齢的にも社会的にも大人になったものの、何か大人になり切れていないと思う自分がいた。どうして自分だけ色が違うのだろう、と他のアヒルと比べる白鳥のように。そして、かつて自分が出会ってきた大人の姿を追い求めた。子どもの頃に見た大人の姿を、大人の社会の中でも探した。でも、見つからなかった。そりゃそうだ。子どもの頃に出会った頼れる大人だって、知らない事もあって間違う事も失敗する事もある「人間」なのだから。

不器用でも失敗する事があっても、白鳥としての人生を歩んでいきたい

私がなるべきだと思っていた大人は、今の世界にはいない。今まで大人が与えてくれた価値観を基にして、私だけの価値観を見いださなければならなかったのだ。その事に、母親アヒルの登場まで気が付かなかったのである。
この思いつきをきっかけに、もう一度、『みにくいアヒルの子』を読み返してみた。母親アヒルは白鳥の雛に「おまえは生まれてこなければよかったのよ」と酷い事も言っていたけれど、母として「とても気だてがいいし、泳ぎは他のものより上手です」と他のアヒルに言い返している場面もあった。それは立派な「母」の姿でもあった。自分に出来る限りの事をする、それも大人としての在り方だ。そう、母親アヒルが言っているような気がする。
白鳥はどう頑張ったってアヒルにはなれない。私は白鳥なのに、アヒルになろうとしていたのだろう。これからはちょっと不器用でも失敗する事があるとしても、白鳥としての人生を歩んでいきたい。そんな私の壮大な物語は、まだ序章にすぎないのである。続く。