私は昔から『個性的だね』『変わっているね』と言われ続けてきた。
それは今も変わらずだが、昔は良い気がしなかった。
何故なら軽蔑されたような気がしていたからだ。

趣味嗜好や、一匹狼なところを、周囲は『個性的』だね、と表現した

何故私が個性的だの変わってるだの言われるのか、今思えば思い当たる節はたくさんある。

私には姉がいるが、姉は幼少期から美少女キャラクターやアイドルが大好きな女の子だった。

洋服もかわいらしいスカートを好んでいたし、周りもいつも女の子の友達に囲まれていた。

一方の私は、幼少期の頃はアイドルや美少女キャラクターになんの興味もなかった。引っ込み思案な性格なこともあり、友達は少なく、友達と遊ぶよりも一人で図書館にこもってだいすきな恐竜の本を読んだり、図鑑を読むことが大好きだった。

その趣味嗜好や、一匹狼なところを、周囲は『個性的』だね、という言葉で表現していたのだと思う。

中学では友達は少なく、一見暗いやつに見えていたと思う

しかし、その私の趣味嗜好は、一般的な女の子が好む方向には一向に進まず、中学生に上がると、音楽にドハマりする。それもテレビで見るようなイケメンタレントではなく、いわゆるロックスターに憧れを抱くようになるのだ。
世界的ロックスター『KISS』のファンになってからは、周りに話せる人もいない為、より一層家で『KISS』の映像を見る日が続いた。

そんな私は友達は少なく、一見暗いやつに見えていたと思う。

それをポジティブに表現した言葉こそ『個性的』という事なんだろうなと私は思った。

しかしそれが本当に『個性的』なのだろうか。

私は好きな事をしているだけだ。

自分の枠から外れた人を変人扱いする。その思考がもう変だ

女の子なんだからふつうは可愛らしいものが好きでしょ。
女の子なんだからふつう○○でしょ。

私はこの固定概念と戦う気はない。
そもそもこの基準で私を見ているから、枠に外れた人を変わり者扱いする。

しかし私はそもそも、この世界は『常識人を演じた変人達』の集団だと思っている。

自分の枠から外れた人を変人扱いするその思考がもう変だ。

なんのために、誰のために常識人を演じる必要性があるのだろうか。

『常識』『ふつう』

こんな普遍的で抽象的な表現に惑わされてたまるもんか。

それなら『ふつう』じゃなくていい
『常識人』じゃなくていい。

そんな人たちがあふれた世の中そ想像するだけでワクワクする。