「ふつう」のままでいたくない、という人はたくさんいると思う。平凡な人ではなくて、非凡な能力を持っている人になりたい、そういう願いは私の中にもずっとある。
「ふつう」って定義しづらいから、そういう疑問は浮かぶにせよ、とにかく何か「これだったらあの人に聞こう」、「あなたは◯◯が上手にできるよね」みたいな、私の特徴になる長所がほしかった。
その一つが「英語力」だ。

英語で小説を書けるようになって、周りから得た称賛はまるで賞状

幼い頃から、趣味の多くは英語圏の文化だった私にとって、英語を使えるようになることは、大きな目標だった。
私の中でのふつうはずっと「喋れるようになりたいけど、力が足りない」で、いつかそれを「日常会話はふつうに喋れる」に変えたかった。自分が気になっている文化の言語がわかったらもっと楽しいだろうし、「努力で何かを成し遂げる」経験もしてみたかった。高校生の時には同級生が話せるようになっていくのを尻目に悔しい思いをし、それでもやっぱり英語が好きで、なんだかんだと続けてきた。

そしてついに、大学四年生にして「日常会話は不便ではない」レベルに到達し、私は英語で小説を書けるまでになった(私の専攻は小説創作でもあるから、余計に嬉しい成長だった)。留学先の教授やクラスメイトに褒められた経験は、私にとっての賞状だった。

やっと得た私の人より抜きんでた長所、結局それも「ふつう」だった

けれども、そんなのは「ふつう」なのだ。そのことに、留学先で気がついて呆然とした。英語を使って仕事をしている人、海外に移住してそこで生計を立てられている人、それこそ、母国語以外の大学で学位を取得したり、小説を書いて出版している人なんて山ほどいる。

もっと言ってしまえば、ヨーロッパは「多言語話者がふつう」の国々が多い。学歴がある多くのヨーロッパの人は、母国語、英語とともに、あともう一言語ほど話せるようになっている人がたくさんいる。
私、せっかくふつうを超えられたと思ったのに。ふつうの人じゃなくて、ちょっとは抜きん出た人になったかと思ったのに、まだまだだった。

特別な存在になる、それだけのために戦略的に英語を勉強しているわけではないけれど、長くやっていればいるほど結果を求めてしまう。その分野の中でも抜きん出た存在になりたいとエゴが増幅してしまう。せっかく習得したのだから、ただそれが「わかる」だけではなくて、「その能力を使って何か別のものを生み出す」レベルにまで到達したい。まだあと何千歩、何万歩もありそうな道のりが恨めしい(そして、帰国後に英語を使う機会は減ったので、余計に遠くなった気がしてならない)。

努力して手に入れたチケット、でも私の目指す行き先はどこ?

きっと、このエゴ・感情こそ「ふつう」で、特に後ろめたく思う必要はないはずなのに、結局は、こういうモヤモヤを感じないほど努力できるような人、つまり「ふつう」な人に留まっていたくないだけなのか……。

英語で仕事をしている友人、母国語ではない言語を使ってアーティストとして活動している人々、語学専攻の大学生を見るたびに羨ましくなって、なんとなく気落ちする。
第一歩、「英語にそんなに不自由がない」レベルまでは到達できた。
それってまるで、私はこれでようやく「ありきたり」から抜け出すチケットを手にいれたみたいな、でも行くところはどこなんだろうみたいな、そんな感覚。
そもそも、「ふつう」なんて千差万別で、私は一体どの辺りの「ふつう」を目指したいのだろう? それによっても、これからの努力の仕方や身の回りの環境の選び方は変わってくる。
どうすればいいですか、私は何者にならなきゃなんだろう。
自分の人生をどうしたいのか、自分はどの文化圏に属したいのか、そういう自意識がようやく芽生えてきたのかもしれない。それか、余計に拗らせたのかも。