わたしにはおっぱいがない。

「おっぱい」とは、何か基準を超えていないといけないのだろうか

周りの友人たちの胸がふくらみ始めた中学生の頃、母親によくしていた質問を、二十歳を過ぎた今も時々、その時より白髪が増えて、しわの刻まれた、まるで玉手箱を開けてしまったようなビジュアルの母親に問いかける。更年期まっさかりの母親の成長の方が、思春期もとうに過ぎたわたしのおっぱいの成長よりも速いのかもしれない。

でも、おっぱいとは何か基準を超えていないといけないのだろうか。何ccとか基準値が必要だろうか。おっぱいがなくて困ることはこの歳まで生きてきて思いつかない。いまどき、下着はお店に行かなくても手に入るし、パットや何やらを使って「ない」ものを「あるもの」と誤魔化すことなんぞ、いくらでもできる時代である。

おっぱいがないことを「壁」とか「ウォール街」とか豊かな語彙力を用いて上手く表現していた友人たちであったが、そんなにわたしのおっぱいがないことを讃えておいて、自分のふくよかなおっぱいに対しては、走るときには揺れるだの、この間電車の中で触られただの、どうも不満が溜まる一方で面倒くさそうであった。

むしろ、おっぱいがない方が楽に人生を送れるのではないだろうか。少なくとも、わたしは気楽に生きている。

おっぱいがないことで傷ついた。生理が来るのも遅かった

いやいや、一旦落ち着こう。散々おっぱいがないことで馬鹿にされてきたではないか。マウントを取られて来たではないか。傷ついてきたではないか。思春期の男子は皆、本能的におっぱいが好きである。自分にはおっぱいがないくせに、性別が女である生き物に対しては、おっぱいがないと女と識別できないらしい。体育の授業中にクラスの男子から「胸がない」と面と向かって言われたことがある。貧乳に悩む女子なら誰もが通る通過儀礼のようなものである。しかし、わたしは何も言い返すことができず、気づくと涙目になっていた。図星だからである。胸がないと言われたら反論することもできない。ほんとに胸がないのだから。あの時、どう切り返すのが正解だったのか未だに答えを探していたりする。

生理が来るのも遅かった。高校生の頃、女子の間で生理の話題になるといつも思った。わたしには生理がない。原因は明らかであった。近頃人気の大食いモッパン系YouTuberの動画を見て、「よくこんなに食べても太らないな」と多くの人が思うだろうが、当時のわたしもそうだった。中高時代、練習の厳しい運動部に所属し、摂取カロリーを遥かに超えるカロリーを消費する激しい運動をしていたため、恐らく栄養失調に近い状態でホルモンバランスが乱れていたからだ。ガリガリだった当時、もっと大食いしておけばよかったと、コンビニの惣菜パン2つで気分が悪くなってしまう今のわたしの胃が恨めしい。おかげでホルモンの乱れが原因の珍しい病気にもなった。最近の世の中は、生理の黙秘権が放棄されたらしく、生理や性についておおっぴらに語られることも少なくなくなった。多くの人は言う、「時代も大きく変わったのだ」と。ひと昔前の女性を経験してきた母親もそう言っているのだから間違いない。SNS上で流れてくる生理についてのトークイベントの広告を見ながら、わたしはふと、ドラッグストアで生理用品がまっくろなレジ袋に入れられるシーンを思い出した。

「ない」だけで、女という性別も持っていないかのような気分だった

「今日、三日目なんだ」「今月まだ来てなくて…」「持ってる?」おっぱいがなくて、生理がなかった思春期のわたしはクラスの女子たちとそういったガールズトークをすることも許されず、ただふつうはあるはずのものが身体に「ない」だけで、女という性別も持っていないかのような気分だった。女子にも女子の会員証が必要なのだ。そんな淡く切ない、わたしなりの青春時代を終え、大学生になった。久々に中学時代の友人たちと集まった。皆、男やセックスの話しかしない。退屈だった。おっぱいのある女子たちはそれを道具に男を悦ばせているようであった。

そんな話を聞いていてふと思った。わたしにはおっぱいがない。でも、夢はある。大学生になったわたしは今も尚、小学生の卒業文集に書いた夢に憧れている。「大学生なんて、現実そんなもんだよ」といわゆる出会いに関する有益な情報を多く提供してくれたおっぱいを持つ友人に、夢なんか話そうものならこの世の終わりのような気がした大学二年生の春だった。

わたしはどうも「個性」と言う言葉が好きになれない。それはたぶん、わたしのおっぱいの個性が大多数のおっぱいの個性にかき消された思春期に、「個性を生かして」とか「個性を大事に」とか言い聞かされてきたからだと思う。わたしの個性嫌いは、わたしの個性とマッチしない多数派に忖度した個性に対するせめてもの抵抗である。人間というものは一人ひとり違うはずなのに、身体の一部がないだけで不良品のラベルを貼られてしまう。この世界では、おっぱいにも、生理にも、持つ者の権利を守るため、持たざる者が必要とされるらしい。わたしは後者として生まれてきた。女子にもなれないわたしみたいなおっぱいを持たざる人間が、男女やら性やらLGBTQやらの平等が唱えられているなんて信じられなかった。わたしはパラレルワールドに住んでいるみたいだ。おっぱいの代わりになる何かを毎日必死に探している大学三年生の冬になった。