私にとっての『ふつう』とは。朝6時に起きてプロテインを飲み、夕方まで仕事をして帰宅、その後深夜0時近くまでパソコンに向かって小説の原稿やエッセイを書く。私の中ではこれが『ふつう』の生活だった。

宗教でさえ、『ふつう』が何か定めることは難しいのだから

だが友人曰く『ふつうの人は小説なんて書かないよ』と言うし、また別の人は『夜9時に寝て、朝4時半ごろ起きているんだ』と話してくれる。

『ふつう』、平たく定義するならば『人々が常識、それが正常だと考えている』こと、となるのだろうか。

だが考えてみてほしい。私は高校生の頃、世界の三大宗教はイスラム教、ユダヤ教、キリスト教だと世界史の先生から教わった。けれど宗教や宗派ごとに、信者たちが『ふつう』と見なしている行為や書物、逸話などは細かく異なっている。その上、同じ宗教を信じる人たち同士でさえ、あの時神さまはどう言ったのか、信者ならばどう行動し何処へ向かうべきなのか、死後どうなるのか対する捉え方が驚くほどバラバラだ。世界中、現在進行形で勃発している宗教間の争いを見れば、各々が『ふつう』と捉えるところに起因する力の大きさは一目瞭然だろう。

ここで私が言いたいのは、世界史や宗教史についてでもなければ国際情勢や紛争問題についてでもない。

人間が生きていくうえで重要視されがちな宗教でさえ、『ふつう』が何かなどハッキリ定めることは難しいのだから。地球という惑星の東の果てにぷかぷか浮かぶ、小さな島国の、とある市町村の一画で生きている私の周りでも、『ふつう』を綺麗に定義できるはずがない。

貴方と私の『ふつう』が全く同じという奇跡は期待しない方がいい

その人の価値観や生きてきた環境によって、例えその差が小さい物だとしても、貴方と私の間における『ふつう』が全く同じである確率の方が少ないのだ。逆に、より近い『ふつう』を持っている人同士が出会えた時、親友や恋人、家族をうむのかもしれないが。

ひとまず、そんな奇跡は期待しない方がいいだろう。電車に乗ってふと、目の前に座った誰かと貴方が、名も知らない貴方たち同士が一駅分の区間で仲良くなれるのであれば。そんな環境が『ふつう』である世界で生きてきた人ならば。どうか当たり前のように奇跡を信じてあげてほしい。
だが、自分と他人の『ふつう』が一致することを『奇跡』と捉えてしまっている時点で。少なくとも私もその一人だが、人間同士の持つ価値観を擦り合わせることは難しい、と。どこかで気付いている。全く同じ人間がこの世に存在していないように、全く同じ『ふつう』もない。

これは相手にとって『ふつう』かも。そう思うと、きっと少し楽になる

そのことを念頭に置いて人や物事と接すれば、ある日突然貴方にとっての『ふつうでないこと』と出会っても。これは相手にとっての『ふつう』かもしれないなと、少し心の余裕が生まれるだろう。そうすればきっと、生きていくことがほんの少しだけ楽になる。取り急ぎ私はその『楽』を体験した一人だと報告をしておく。あくまで個人の感想なので、全ての人に同じような効果があるなどと期待しないでいただきたい。
『ふつう』でないことが『ふつう』な世界は、確かに不安も多いだろう。自分の『ふつう』と、世界や友人の『ふつう』が同じだったらどれだけ良かっただろうか。けれど、そんな奇跡を『奇跡』と知っている時点で、貴方は強い。
だからどうか、『ふつう』のこの世界を一緒に愛したいと思う。そして、毎日乗る電車の向かいで私を見つけた時には、心の中でそっと挨拶でもしてほしい。私自身も、目が合ったら微笑む努力はしてみようと思う。
こんな妄想を常日頃している生活も、私にとっての『ふつう』だ。