おっぱいが存在するのは子どものため?男の人のため?
私はしょっちゅうおっぱいのゲシュタルト崩壊を起こす。例えば全裸で体重計に乗る前ちらっと映った全身鏡、湯船に浸かって大きく息を吐いた時、おっぱいと目が合うと自分の体が土偶に見えてくる。私の体だけじゃない。銭湯は無数の土偶で溢れているし、ラブホテルでアダルトビデオを観賞すれば上下運動する土偶から甘美な吐息が聴こえてくるようでまるでセクシーな気分になれない。けれどお構いなしに行為は進み、恋人が私のおっぱいに顔を埋める。髭が少し痛い。私は恋人の頭を撫でながらおっぱいの哲学に耽る。おっぱいは何のために存在するのだろう。もし出産したら子どもに乳を飲ませるため?じゃあどうして私のお父さんにもおっぱいはついているの?どうして恋人は赤ん坊じゃないのに私のおっぱいに夢中になるの?
頭の中で知らないOJISANが囁いた。
「君のおっぱいは男の人を喜ばすためにあるんだよ」
胸の大きさに気づかないことは私なりの自己防衛だった
ある日、友人の付き添いでランジェリーショップに入店し、サイズを測る運びになった。
「Gcupですね」
店員さんの一言に思わず「は?」と反抗期の高校生みたいな声が出てしまった。なんせ21歳の私はこれまでCcupだと思い込んで生きてきたのだから。ふに落ちない私を他所に店員さんはGcupのブラジャーを持ってきた。メロン入れになりそうな布の面積に、なんだこれ、全然可愛くない、と内心ドン引きした。着ればわかる、と試着を促されCcupのブラジャーを外す。肌に刻み込まれた深く赤い跡が露わとなり店員さんに「これじゃあサラシですよ」と叱られた。
サイズの合ったブラジャーは控えめに言っても天国だった。感動で泣けるほどの開放感。呼吸が楽にできる。はしゃぐ私を横目に店員さんは鼻が高い。店員さんによるとブラジャー着用者の71%がサイズを勘違いしており、その内54%が小さいサイズを使用しているという。これには私も思い当たる節が2つある。1つは例えば漫画等ファンタジーで描かれるGcupと実際のGcupの間に差があることだ。その上Gcupと一口に言えど見た目の大きさは個人差がかなりある。だからイメージが先行し、私がGcupもあるわけない!と思ったのだ。もう1つは胸の大きさが性的に見られることに繋がるからではないだろうか。(まあどのサイズの胸でも「このくらいのおっぱいが一番興奮する」とコメントが来ますが)性的に見られる=嬉しいこと、と認識している人もいるが、案外性的に見られることに恐怖や不快感を抱く人は多い。私も心を許した好きな人でない場合、嫌悪がある。なので自己防衛も兼ねて自分の胸が大きいと気づきたくなかった。
胸や体形にコンプレックスを抱かなければならない社会に辟易した
ここからはGcupの苦悩を紹介する。普段の会話でなら、自慢?嫌味?と顰蹙を買いかねないけれど、人には人の辛さがあり、どの辛さも本物だと思います故。
まずブラジャーの選択肢が驚くほど少ない。店頭でも通販でも惹かれたデザインのブラジャーはサイズの取り扱いがなく、そのたび心が折れる。しかもボリュームのあるバスト用ブラジャーは料金が張る。布代だけでなく"重力に負けないように""小さく見せるために"といった機能性に費用がかかるらしい。お財布が寒いが今はもう腹を括りダサくて高いブラジャーを受け入れている私なのであった。
あとはなんといっても洋服選びが難しい。モデルさんが着ているトップスに一目惚れしても私が着ると谷間が丸見えになったり、体のラインが出る装いをすると性的に見られ、更にそれを望んでいると勘違いされる。電車で乗り合わせた赤の他人、アルバイト先のオーナー……突発的に目がいくのは仕方ないとして、いつまでも舐め回すように視線を送られるとやっぱり気持ち悪い。また、同性からチクりと刺さる言葉をしばしば投げられる。一緒にレストランで食事を取っていると「あの席の人達、さっきから遊花のことばっかり見てるよ。別に私の武器は胸じゃないからいいけど」と鼻で笑われ「私の武器だって別に胸じゃないけど」と喉まで出かかって飲み込んだり。だけど誤解しないでほしいのは私の敵は彼女ではないし、彼女の敵も私ではない。私たちが戦うべきは胸のサイズにコンプレックスを抱かなければならない理由を作っている社会、人々なのだ。
私はもともと体にフィットする洋服が好きだったがこのように嫌な出来事が続き、手が遠のいた。おっぱいはただのおっぱいなのに、"女のシンボル""いやらしい"そんな意味が付与されて全部投げ出したくなる。好きだと信じて疑わなかったフリルもリボンも体に沿ったワンピースもどこまでが私の意志?私が"女"だから仕組まれたレールなの?考え出すと頭が捻れる。女なんて辞めちまいたい。だからといって男になりたいわけでもない。ただフラットになりたかった。
その頃からオーバーオールやゆったりとしたTシャツに惹かれるようになった。女からの抜け道になる予感があったからだ。ところが私がそれらを着ると実際の1.7倍はふくよかに見え、会う人会う人「太った?」と聞かれる。バストトップの位置までお腹が出ている錯覚が生じるのだ。それでいて手脚の細さは変わらないからハンプティダンプティのような不格好さである。もちろん体の細い太いに良し悪しはないけれど摂食障害を患った身としては何気ない「太った?」をまだ上手に消化できない。おっぱいから目を背けるために手を出したファッションが却って胸のボリュームを浮き彫りにしたわけだ。
あなたたちにわかるだろうか。私のおっぱいの素晴らしさと、心の痛み
今日も私はクローゼットの前に佇んで時間を消費している。
「ねぇ、結局私は何を着ればいいの?」
頭の中で失礼なおっさんと友人を召喚して胸ぐらを掴み、問いただす。
「ジロジロ見てんじゃねーよ。女だと思って舐めやがって」
「友達だからって太った?とか軽々しく聞いてくんなよ」
あなたたちにはわからないよね。
私のおっぱいは白くて、命の温かさがあって、柔らかくて、豊かで、焼きたてのハイジの白パンみたいに気持ちいいこと。
あなたたちにもわかるはずだよ。ひとの痛み。わかるはずだと信じたいよ。