高校の頃、国語の先生にこう言われた。「お前の文章はひどい、本を読め」と。

当時、その言葉は私を傷つけるのには十分なほど痛烈に胸に突き刺さった。なぜならその言葉は、私の好きなことを真っ向から批判されたことだったからだ。

言葉には注意をして大切に扱ってきていたつもりなのに

私自身小さい頃から大の読書好きであった。小学生の頃は図書館が好きすぎてお友達に校庭での鬼ごっこを誘われても断るくらい、それくらい自分の中で“本”というのは常に一番の拠り所だった。読書と同じくらい書くことも大好きだった。思い返してみれば作文で褒められた経験は無いが...。

私にとって“言葉”は多くの辛いことや悲しいことから助けてくれる救世主だった。元気が出ないとき、人間関係が上手くいかないとき、失恋したとき、いつも私を支え導き出してくれたのは小説をはじめ偉人の言葉やツイッターといった言葉たちだった。だからこそ、私は誰かとお話するとき、言葉には注意をして大切に扱ってきていたつもりだった。自分は言葉に一番傷つく人間だからこそ、言葉で誰かを嫌な気持ちにしたくなく慎重に丁寧に扱っていきたかった。

そんな中その言葉を言われたとき、自分の文章を否定されたことも、本を読んでいるのにこんな言葉の使い方しかできない自分自身にも強く恥ずかしさを感じた。結局先生には「本は好きですけどね」と心の中でつぶやき、自分の気持ちを正直に告白することはできなかった。

傷つかないように、自分の意見を発信することを放棄した

それからというもの、私の書くことへの強いコンプレックスが始まった。あの日、家に着いた私はすぐさま「文章が上手くなる方法」とググった。ほとんどの記事が、本を読みなさいと何の参考にもならないアドバイスをくれた。なんなら本の読み方でさえ享受してくれた記事もあり、なんだか自分自身の今までの読書を否定された感情さえも味わった。私はただ楽しく本を読んでいただけなのに。

読書家なのに文章が下手なのは許されないことなのかもしれない、それは読書家とは言えないのかもしれない、と自分の読書への想いはそれからというもの自分だけの秘密となった。誰にも本を好きな気持ちを共有できないのはなかなかに苦痛で、たまに私はあの作者のこの本が好きということを誰かに打ち明けてみると「え、そうなの?意外。本読みそうなタイプじゃなくない?」という言葉をかけられることもあった。そしてそういった些細な言葉に私はチクっと痛みを感じてきた。

私は言葉に傷つきやすすぎるのだから、自分の本当の気持ちを言葉にしなければ、もう傷くことがないのだと気づき、私は自分の本当の気持ちを隠すようになった。それは自分自身の意見を発信することを放棄することだった。それで心穏やかに過ごせるのなら、その方が良いと本気で信じていた。

大学へ入ってからも、レポートでは教授という評価の目を考え、書く作業をした。ただ相手の求めることを想像し、それにふさわしい立場での自分の意見といった嘘を述べるのだ。評価を気にして書くことは、時間が掛かるうえにつまらない作業だった。どれだけ書いても自分の本当の意見は別にない。それで評価され成績が良くても嬉しくなかった。そんなことをしてまでも、自分の文章の下手さをレポートの形式に沿うという形で隠し、自分の意見が否定される可能性をはじめから防ぐことの方が大事だった。

あの時、先生が言った言葉は多分正しかったけれど

大学三年になった私はある日、ふいに日記を始めた。誰にも見られないからと日々感じたことや誰にも話していないことを一心不乱に殴り書いた。私にとってこの活動は子どもの頃の書くことが大好きだった私を思い出させ、毎日の楽しみになるくらいには好きなことへと変わった。誰の目も気にせず、乱雑でも、自分の想いを文字に綴ることってなんて楽しいんだろうと気づいた。それからこの日記は私の習慣へと変わり、私はただ自分の想いを書き続けた。そして段々とあの日言われた言葉について気づき始めたことがあった。

あの時、先生が言った言葉は多分正しかったということだ。私は文章の構成だとかテクニックなんてものは全く知らなかった。読み手を惹きつける書き方なども出来ない。そして先生の求めることを書けなかったのかもしれない。国語の先生として、そんな私の自分の想いを書き綴った文章はさぞ乱雑で常軌を逸した“ひどい”ものだったに違いない。

だが、文章が下手だからといって読書をしていないという結果にはならない。読書が好きでも、文章が下手な人がいるという理解があちら側に少しでもあれば、私はこのようなコンプレックスを抱くこともなかったのだと思う。下手でも、能力がなくても好きなことは好きだと自分自身を認めてあげる強さがあればよかったのだとも思う。

これは多くのことでも言える。たとえば「英語が好き」というと「え?TOEICの点数はどのくらいあるの?」と。スポーツでもなんでもなぜ多くの“好き”には目に見える能力が必要なのだろう。逆もしかり、なぜ能力がないからといって十分な努力がされてないだとかに繋がるのだろう。目に見えるものだけがすべてじゃないのに、結果が大事という社会。そんな多くの沁みついた根底にある”常識”が私達を締め付ける。
べつにいいじゃん。本当は、好きなことを好きだと言うのに資格なんていらないはず、と私は思う。たとえ結果がついてこなくても、それを取り繕うための嘘をつく必要なんて決してない。第三者からの評価なんて気にせず、好きだから一生懸命楽しんでいたり、がむしゃらに努力をする姿はかっこいい。それは十分に評価されるべきことのはず。たとえ目に見えるもので証明することはできなくても、誰からも評価されなくても、好きという感情は本当なのだから、誰かに堂々と言っていいじゃん!下手だと笑われても、私は好きなのだから。

文章が下手だと言われても、書き続けたい

今、私があの国語の先生に大きな声で言いたいことはこれだ。「あなたは確かに日本語を上手に使いこなせ、正しい言葉を綴ることはできるかもしれない。でも、人を傷つける言葉をこうも簡単に言えてしまうのは、それは言葉を扱う国語の先生として失格なのではないでしょうか」と。異論は認めない。

私は未だに自分の意見を発信することが少し怖い。私は自分の文章が下手ということも十分認める。私はそれでも、言葉が大好きなのだ。自分が読書が大好きであることも本当は隠したくはない。そして私は文章が下手だと言い続けられても、書き続けていきたい。下手なりに自分の想いを伝えていきたい。

今、私はこのように自分の文章を発信するようなことをしている。こうやって誰かに自分の文章を見せることもまた、あの日言われたことを今でも認めたくないだけなのかもしれない。