ふつうという概念は捨てた。いらないから。

高校に行かない私に母が言った。
「どうして行かないの」
私は本当に疑問だったからこう言った。
「どうして行かなきゃ行けないの」
そうすると本当に理解ができないと言う顔をして母が言った。
「それがふつうだからでしょーーー」。
ちなみにこの時の声はだんだんと高く大きくなって言っている。

私は本当に理解が出来なかったので、関わるのをやめようと思い、母と父の言動の一切を無視して逃げた。結果ベッドの上で赤ちゃんのように丸まっている私を両親が揃って「頭おかしいんじゃないのか」「親を無視するとは何事か」と言いながら殴って揺すっていた。

「ふつう」を強制しないで。私はあなたたちとは「別の人」だ

相互理解が無理だと悟ったから関わらないようにしたのに、どうやら両親はそれが許せなかったらしい。娘は高校に行き、親の言うことを聞き、親を無視なんてせず自分たちの想像の範囲内で生きている。娘のことはなんでも分かってるし、娘が私たちの意見を聞くのはとうぜんだ。彼らはそう思っていたと思う。

あなたたちが理想の「絵」を描くのはいい。それは勝手だ。私だって好きな人に好きになってほしいという「絵」を描くし、友達にもっと頼られたいという「絵」を描く。けれどそれはあくまで個人の頭の中の話なんだ。それを相手に伝えなければ始まらないし、それが相手にとって心地よい方法でなければ成し得ない。

あなたの頭の中に「絵」があるようにみんなの頭の中に「絵」があるんだ。そのふたつの「絵」が混じり合い溶かし合って新たな「絵」を創る方法は対話やスキンシップを通して傷つく覚悟で自分を賭けて相手を知ろうとするしかないと思うんだ。ただ私があなたたちのもとに生まれただけであなたたちの「絵」のパーツになることを強制されるのは本当にフェアじゃない。

私はあなたたちが初めて私を見た時を覚えている。私がうつ病だと告白した18のとき。あなたたちの「ふつう」で本当に私とあなたたちが「別の人」になったとき。それまで私は「ひと」じゃなかった。「所有物」だった。なあ別離してどう思った。私があなたたちを愛さないとこの縁は切れるんだよ。

いわゆる「ふつう」の愛は貰ってないけれど

では私は誰に愛されたのか。どうしてここで生きていけているのか。いまだってさみしい。少し誰かにすがりたい。けれどあの時ほどじゃない。それはみんなが愛をくれたから。それはいわゆる「ふつう」じゃない。だっていわゆる「ふつう」の愛は貰ってない。

家に飲みに来ていた大人がポロっと言った。「私は愛されてる。愛されてるということはとても大事だと思う」と。「それは親に?」と私が聞くと「うん、そう」と答えた。「だから私が愛してあげるんだ。愛されてないやつはだめだ。使えない。けどしょうがない」

その人は酔ってた。だから親の前でなんらかの感情を必死にこらえて笑ってた私もその人もなにも悪くない。悪くないけど、どうしようもない。私は笑いながら心の中で反論してた。「確かにそうだ。その通りだと思う。愛が心の中にあるやつは強い。けどその愛は何も親から受けたものじゃなくていいと思う。大きなものでなくてもいいと思う。小さな欠片を繋いで集めて眺めていたらそれだけで素敵な気持ちになれる」と。

私がもらった愛は人によっては顔をしかめる。自分を大切にしなよと怒られる。そんなあなたを大切にしない人なんて私が文句言ってやるって怒る。

けどなにか違う。

怒らないで欲しい。私に愛をくれた人を軽蔑しないで欲しい。

愛してもらった欠片を集めて、その体温のなかで眠る

確かにその人たちは今後の私の人生に一切関わらないかもしれない。一瞬先では私のことをどうでもよく思っているかもしれないし、愛なんて忘れて欲だけをぶつけてくるかもしれない。それでもこの今の一瞬だけは私に愛をくれてるの。可哀想だと思って、優しくして守ってあげたいと思ってハグしてくれてる。その宝物がもらえることが私は嬉しい。愛してもらった欠片を集めてつらい夜に必死に思い出してその体温のなかで眠る。

その体温があるだけで凍える夜を越すのがどれだけ楽になるか。それをわからないことが「ふつう」なら私は「ふつう」なんていらない。

少女の頃、部屋から眺めた夕陽はとても美しかった。けれど血反吐を吐くことに忙しくて夕陽を見ることなんて忘れていた期間を経て、またすこし夕陽が綺麗だなと思う私がこの上なく愛おしい。明日、明後日とどんどん夕陽が綺麗になっていくのかと思うと心にぽっと火が灯る。だから私はこれでよかった。