小学生の頃からだろうか。私は『普通』に憧れていた。
普通の人になりたくて、一生懸命普通の人はどうするのかを学んだ。
普通の人は笑顔で挨拶ができて、大人数でも委縮しなくて、みんなの前に出ても堂々と話せて、そして好きな人ができて恋バナをする。それが私にとっての『普通』で、憧れだった。
憧れていた『普通』は崩れ始めている。
けれど大人になった今も、25歳という年齢になっても、私は未だに『普通』に憧れている。
むしろ憧れていた『普通』が遠ざかり、大人になるにつれて、どんどん一般的な理想像、いや人間像から遠ざかっているように思えていた。
例えば一般的な理想像は、30歳までに結婚して、子どもを2人以上産んで、主婦になり子どもたちを見守ることだと、私は思っていた。
けれど昨今はコロナの影響もあり、どの家庭も綻びが出始めている。「一億総中流社会」と呼ばれた時代なんて、私が生まれるよりも前の遠い昔のことだ。
それでも、その時代に戻りたいなんて思ってしまうくらい、今は不安で憂鬱で、哀しい時代になってしまった。
『女は結婚して家庭を守り、男は外で仕事をして大黒柱になる』そんなイメージが崩れ始めている昨今、『結婚するのが当たり前』という概念自体も、壊れ始めているのではないだろうか。
誰にも恋愛感情を持たない「アセクシャル」である私。でも孤独ではない。
そんな時代で私は、他者に対して性的欲求も、恋愛感情も抱かない人間であるといったら、信じてもらえるだろうか。
最近では「アセクシャル」や「ノンセクシャル」という性のあり方も、段々と世間に認識され始めているように感じるが、非当事者には、まだあまり浸透していないのが現実である。けれど、もし読者のなかに誰も知っている方がいなかったとしても、少しずつ広めていければ良いと私は思う。
私は「アセクシャル」と名乗っているが、厳密にいうと「アロマンティック・アセクシャル」である。性的欲求も恋愛感情も他人に対して抱くことはないなんて信じられないかもしれないが、SNS上ではかなりの数の人が周囲との不和に悩み、苦しんでいる。
どうあがいても、私は『普通』にはなれないと悟ったのは、大学生の頃だ。たまたま講義でLGBTQを扱ったものがあり、僅かではあるが「アセクシャル」についても取り上げられていた。
そのときに漠然と、私もそうではないかと思い、同じような悩みを抱える人と出会えるイベントに行き、その際にSNS上でアカウントを作った。そうして多くの人とつながることになり、自分だけではないと知った。
世間のいう『普通』の幸せを享受できない私は、永遠に他者との違いに苦しむことになるのだろう。
けれど私一人ではない、孤独ではないと知った今、私は世間一般の『普通』の幸せの型にはまらない、新たな幸せを模索していこうと思っている。
恋愛ができなくても、みんなで幸せになれると証明したい。
「大丈夫、『普通』になんてなれなくても、私たちは幸せになれるよ」と、声を大にして言いたい。
普通に結婚して幸せになれる人が羨ましくないと言ったら嘘になる。
母のように、普通に結婚して子どもを産んで、当たり前のように愛情を注げる人に、私はなりたかった。
けれど一人の男性でさえ愛せない私は、永遠に母のようになることはできないだろう。
それでも、幸せになれると証明したい。みんなで幸せになりたいと思っている。
いつか恋愛ができずとも、みんなで気軽に会ったり相談したりできるような、助け合えるコミュニティーを作りたい。
どうか私は、世間一般の『普通』とは違う、私たちにとっての『普通』を、また一から創りあげたいのだ。