私の家はいわゆる「ふつうの家庭」だった。一人で一家を養えるだけの稼ぎがある父親と主婦の母親。経済力を持つ夫に添い、子どもを産み、大黒柱の庇護の下生きていく。それが女に望まれた生き方で、誰からも祝福される「女の幸せ」だと、私は疑わずにいた。

人を好きになるとは努力すること。努力むなしく、性愛者でないと判明

しかし私が小学生のとき母方の祖父が亡くなった。叔父は婿養子に出され、跡取りはすでにいない。そんな状況の母方の家に、私の中学校入学とほぼ同時期に父親が養子縁組をすることとなったが、この出来事は私の中の「結婚」に大きな衝撃を与えることとなる。家を守るため、なんとしても結婚しなければいけない。

婿をもらい、子を成し、家名を継がせなければならない。未だ潰えぬ家制度の呪いに、一人の少女が囚われることとなったのだ。

だが残念ながら、成長するほどに私は知ってしまう。自分が男を愛せぬという事実を、性愛を厭うという現実を。

昔から人を好きになることは努力することだった。好きになるべき男性を見つけ、好きになるべきところを見つけ、どこが好きだ、ここが好きだと言うことで好きになった気になる。恋は落ちるものではなく、身投げであり、無理を通してでも努めるべきものであった。無論それは「恋をする努力」ではなく「異性愛者であるための努力」だったのだが。まあその後努力むなしく、自分が性愛者でないことに気づくが、私が私である以上そうなることは運命だったのだろう。

絶望した。創作物の中だけのファンタジーだと思っていた性愛が現実に

また友人たちが「はじめて」を済ませるようになり、やがて「当然の営み」となっていくのを、私は羨望の仮面で聞いていた。創作物の中だけのファンタジーだと思っていた性愛が現実に存在し、自らが理解していた生殖行為と重なる位置にあることは、私を深く絶望させた。フィクションや生殖行為としての性行為を知っていても、まさかそれがコミュニケーションや愛情表現として本当に用いられているなんて、とてもでないが信じられなかった。

性愛とは、生活の中において与えられた役割をままごとのようにこなすものであり、ありのままの自分としてそれを望み行う人間など存在しないと、私は信じていた。「男女が愛し合い、子どもが生まれる」。それほどに不可解で理不尽で恐ろしいことはなかった。ヒトとしての営みは私にとって遠い世界のおとぎ話であり、それが現実世界に重なり始めた時、私はこの上ない恐怖を感じたのだ。

そうして私は気づいた。何を理想とし何を望もうと、私は無性愛者であるのだと。加えて不登校になり精神を病んでからというもの、ヒト嫌いは加速する一方である。

「女の幸せ」なぞ想像するだけで恐ろしい。それでも「ふつう」を望む

それを自覚した今私にとって、「女の幸せ」なぞ想像するだけで恐ろしい、生きたまま殺され続ける地獄でしかなくなっていた。そしてそんな私の絶望など露知らず、当たり前の顔をして回っている世界に怯えると同時に、ヒトとして最大の欠陥があるのだと、自分を嫌悪し呪いさえした。

それでも私は「ふつう」を諦めきれていない。いや、とうに諦めながらも望んでいる。憎みながら憧れている。蔑みながら羨んでいる。誰からも認められ、祝福され、疑われることのない「ふつう」。一般的で、凡庸で、月並みで、ありふれた「ふつう」は、私にとって巨万の富や名声、権力にも勝るものであった。

おそらくそれは、男を愛さず性愛を望まぬ自らを殺し、望まれた自分を生みだして演じれば、手にすることができるものなのだろう。しかし私はそれに手を伸ばしはしない。私は自らのアイデンティティではなく、世間に認められなければ生きていくことのできない、か弱い少女を手にかけることにしたのだ。

これは「家」に、「女」に、「ふつう」に振り回された少女への手向けである。あなたがすがった「ふつう」を振りほどき、あなたが諦めた「自分の人生」を、私は生きていこう。