私はレズビアンだ。と、いうのは、半分本当で半分嘘だ。本当は、性別関係なく人を好きになるパンセクシュアルだと自認している。付き合ったことがあるのは女性だけで、男性のことも好きになったことはある。

日常生活ではノンケに擬態。訂正するきっかけもメリットもないから

自分のことを説明するときにこのパンセクシュアルという言葉を使うことは正直、日常生活の中では無くて。大概ノンケのフリをするか、レズビアンのフリをするか、一番パンセクシュアルに近い表現として表すとしても、使うのはバイセクシュアルという言葉である。
どうしてそういうことになるのかというと、第一にノンケコミュニティでは恋愛対象が異性以外であるということがまず想定されていない。だから何も言わなければ当然、過去の恋人の話をしても相手は異性である、男性であるという前提でみんなが認識するのである。正直、それを訂正するきっかけもメリットも、大抵そういう話の場では皆無である。だから、日常生活ではノンケに擬態する。

レズビアンコミュニティに居る時は居る時で、レズビアンに擬態する。というのも、今度はその場に居る女性はレズビアンであることが『普通』で、ノンケコミュニティほどではないにしてもバイセクシュアルやパンセクシュアルの人がいる想定がされていない。それだけでなく女性と付き合う女性の中には、過去の彼女に振られた理由がやっぱり男性と付き合いたいからとか、子供を持ちたいから、結婚したいからという人が少なからず居て、出会いの場であれば尚更、男性も恋愛対象に入るような人は警戒されがちなのである。だから初対面からバイセクシュアルであると表明するような人は、最近は特に居ないように思えるし、私自身ある程度仲良くなってから明かすことが多い。

ちゃんと考えるほどにその言葉から遠ざかるのが、『普通』の不思議さ

そんなわけで、私は恋愛において日常生活でも少数派であり、レズビアンコミュニティにおいても少数派なのである。少数派であるということは、私という存在が『普通』という言葉の外側に置かれることだ。『普通』はあまりに便利な言葉だから、その言葉の意味をちゃんと考えることなどない。というか、物事をちゃんと考えれば考えるほどに『普通』という言葉から遠ざかっていくのがこの言葉の不思議なところだ。

例えばなかなか恋人が出来ない人が、理想の相手について「別に普通の人でいいのに」と言ったとする。でもその人に対して、「(理想の相手の)容姿は?収入は?身長は?スポーツや料理は出来た方が良い?」と突っ込んで聞けばある程度の要望は出てくるものだし、もしその全てに対しても「人並みかそれ以上」と答えたとしたら理想が高いと認定して良いだろう。全てにおいて平均点以上の人は間違いなく高スペックである。

『普通』という言葉はその人の中で言語化出来ないぼんやりとした理想的な状態、その人が想定する多くの場合こうだろうという思い込みを表したものだ。だから頭に『普通の』と付けて言葉を具体化したつもりでも、実際何一つとして具体的になっていない。普通の相手はただの相手だし、普通の恋愛はただの恋愛、普通の結婚はただの結婚である。つまり、『普通』という言葉は物事に対する解像度が低い時に使う言葉なのだ。

枕詞に『普通に』と付けることで理想の水準を下げたつもりに

とはいえ、「いやいや、『普通の恋愛』と言ったら異性間の恋愛なんじゃないの?」と思ったそこのアナタ。それを聞いたこちらとしては「そりゃアンタの中ではそうかもな」という話でしかないわけです。恋愛とは男女で成立するものであると思っている人は躊躇いもなく異性愛に対して『普通の恋愛』という言葉を使う。でも、『普通』という枕詞には実際何の意味も無いわけです。普通の恋愛はただの恋愛と同義な訳です。そこにあえて異性愛という意味を持たせることの高慢さを理解できる人はそう多くない。

『普通』という言葉に実は何の意味もないと知ることは、自分の身の回りの世界を知る第一歩であるように思う。誰でも、自分が手に入れたいものや夢が明確になっていないとき、「普通に幸せな人生が送れたら良いな」と漠然と思っている。でも実はそれって単純に幸せな人生を送りたいだけで、枕詞に『普通に』と付けることで理想の水準を下げたつもりになっているだけで、自分にとっての幸せを考えることから逃げているのではないだろうか。

『普通』という言葉には何の意味も無いのだが、唯一『理想的な』というニュアンスだけは含んでいる節がある。なぜなら、『普通』の言葉を使う時点での物事に対する解像度ではただの平均点でも、要素を分解してその全てにおいて平均点であるということは、限りなく理想に近い状態だからだ。このことに気付くためには、如何に自分が物事の一側面しか見ていないかということに気付く必要がある。気付くためには、知らなきゃいけない。自分とは全く違う人生を歩む人のこととか、違う考え方を持つ人とか、社会の仕組みとか、それに伴うありとあらゆる事情などを。知ると少し他人より賢くなった気がして高慢になって、でもそれを超えてもっと色んなことを知ると如何に自分がものを知らなかったかということを知って打ちのめされる。そんな高慢さと不安の揺らぎを繰り返す度に少しずつ自分の身の回りの事象に対する認知の解像度は上がっていく。そんな風に世の中の全てに対して多面的な見方が出来る人が増えてくれば、『普通』という言葉はいつか無くなるのかもしれない。