「うちがお母さんを守って幸せにしていくからね」
私が小学生3年生の頃に母に言ったそうだ。私には全く記憶にないけれど、母が私から言われて1番嬉しかったことだと前に教えられた。
私は一人っ子で、2歳から母子家庭で育った。幼い頃から私の世界では母が一番だった。幼少期は母が死ぬのを想像して毎日泣いていたこともある。
だから、自然な事だった。その不自然さに気づくまでは。
母と自分を守るため、私は母が望むことをしてきた
私が何かを選択する時、自分の思いよりも母が悲しまないことが一番大事だった。
小学校や中学校で付き合う友達関係でも、母が「あの子はちょっと……」と言えば結局私はそれ以上その子と仲良くすることは積極的にはしなかった。
中学校でいじめられ、転校する時も母が一番それを望んでいるからと転校した。
高校も本当は制服の可愛い私立に行きたかったが、家計の状況から母は公立を望んでいたから公立に行った。
今年した結婚も、母が私の幸せと結婚、孫を望んでいたから。
大学進学は反対され、就職を望まれていたのを反発して進学した。だから、それが初めて親にした反抗だったと私は思っていた。けれど、それも少し違っていた。
考えてみたら私は臨床心理士になりたかった、ウエディングプランナーになりたかった、文学を勉強してみたかった、医療分野へ進みたかった。しかし、進学したのは社会福祉の学部だった。
なぜか、答えは簡単だった。母を守るため。
私の母は線維筋痛症という難病により、私が小学生の時から働くことができなくなった。そして生活保護を受けて生活するようになった。だから、母と自分を守って生きていくための知識をつける選択として、社会福祉を学ぶ選択をした。
母から離れて気付いた「呪縛」。私は私の人生を生きていなかった
今年結婚して実家を離れてみて、如何に私は私だけのために選択してこなかったという不自然さに気づいた。
今までは未成年、学生という立場が社会的にもあったため、どこに行くにも何をするにも保護者として母が必ず存在し、母に意見を求めることが当たり前だった。しかし社会人になり、結婚して実家を離れ、買い物や契約、手続きなど何かを選択する時に求められたのは、私自身。保護者が付属することの無い、私一個人で選択して答えを出さなければいけない。
その現実を何度か経験した時、ハッとした。
母を喜ばせる、守る、幸せにするという呪縛に気付かぬうちにずっと縛られていた。そして、その呪縛により自分自身を蔑ろにしていたのだ。
私は精神障害により2019年と2020年は働くことを止められ、休養することを余儀なくされた。起き上がることすらままならない2019年、これから精神障害とどう付き合いどう生きていくのか考える2020年を過ごした。
働くことなく社会と距離を置いて日々を過ごし、自分の人生についてひたすら考える毎日だった。
そして気づいた。母を幸せにしても、私自身が望み、幸せを感じる選択をしなければ、私自身の人生を生きられていることにはならないということに。
私のためだけの選択。でも、それがきっと母を幸せにする
2021年、まだ私は社会復帰をすることはできない。けれど、2020年のように精神障害のことをひたすら考えて鬱々とした時間を過ごす休養の仕方ではなく、心に養分を入れる休養として本当に自分がやりたかったことをやってみることに決めた。
だから、2度目の大学進学に挑戦をする。
ずっとずっと学びたかった心理学を学んでみる。学んでどう活かせるかは分からないけれど、できたら人の心の部分に触れる仕事がしたい。
私が人生ではじめて、母でなく他の誰でもない私が望んだ、私だけのための選択をする。
これを決めた時とても心が弾んだ。
2021年は25歳突入の年。キリがいい。縁起が良さそうだ。
「うちがお母さんを守って幸せにする」のでは無く、今度からは「私が幸せになって、お母さんも幸せにする」ために。