「安定志向―――激しい変化を望まず、最低限お金には困らない生活をしてほしい」
そんな考えを持つ両親に育てられた私には、俗にいう“一般的な人生”を送ってきた。

地元の中学を卒業し、高校は県内の進学校を受験。大学は、それほど学歴に困らない国公立大学に進学した。卒業後は、とりあえずIT系の上場企業に正社員として就職した。いわば、私の人生は“レールの敷かれた人生”そのものだった。

一生安泰とまではいえないが、食いっぱぐれる予兆はない。今日は働きたくないなと思っても、AIは一向に仕事を奪いに来ない。終身雇用制度の崩壊が騒がれても、なんだかピンとこない。このまま私は、多少の窮屈を感じながらもレールの上を歩いていくのだと思っていた。休職を経験するまでは。

「安定した生活」を送るはずだったのに、身も心もボロボロになった…

私が新卒で入社した会社を休職したのは、2年目の初夏、5月半ばのことだった。どちらかというと野心がなくのんびりした性格の私は、ずる賢い同期にあっさり出し抜かれた。同期には知らず知らずのうちに仕事を盗まれ、何も知らないOJT担当の先輩からは「フリーライダー」の各印を押され、社会の理不尽さを嫌というほど味わった。

もどかしさを抱えたまま、社会人2年目に突入。徐々に増していく仕事に対する責任の重さも相まって身も心もボロボロになり、藁にも縋る思いで心療内科を受診した。会社に診断書を突き出し、私の休職期間は幕を開けた。

休職をして一番最初に頭に浮かんだのは「自分は人生のレールから外れたのだ」ということ。今考えると大げさかもしれないが、当時は、焦りと罪悪感でいっぱいだった。

「こうして私が部屋に籠っている間にも、世間の労働世代の人々は世のため人のためにせっせと働いている。それに比べて自分は…」考え出すと止まらなかった。考えるのも嫌だから寝る。そして、何もできない自分に罪悪感を抱く。負の連鎖そのものだった。

休職した焦りから、半ば強引に復職した私に起こったこと

2か月半の休職期間を経て、私は別の部署へと復職した。ネットを漁って感じたのだが、メンタル不全が原因で休職した割に、私の休職期間は比較的短かったと思う。今考えれば、当時は焦りから半ば強引に復職したため、当然といえば当然だった。

「ようやく復帰できる」「人生のレールに戻れる」「生活が安定する」「新しい部署ではやってけるだろうか」そんな期待と不安を抱え、復職日を迎えた。しかし、ここからが本当の戦いだった。

この部署には、もう私を蹴落とそうとする意地の悪い同期も、わからずやの先輩もいない。それなのに、それなのに。なんと私は復職3週目の月曜日、誰にも連絡を入れないままトランクに荷物を詰め、吸い寄せられるように鈍行列車で実家へと向かっていた。

結局あれから1週間の休暇をもらい、面談を経て再び職場に復帰した。心療内科で処方された薬を服用し、週5日フルタイムで出勤している。作業が巻いた日には、小1時間ほど会社の休養室に籠ってみた。天気のいい日には上司の目を盗んでビルの外へと駆けたこともあった。

「心の健康」は簡単に壊れるのに、なかなか簡単には治らない

“安定志向”の話に戻るが、私がこの休職期間と1週間の逃亡期間を経て気づいたことは、安定とは、“心身の健康”を維持することなのだ。そして、これは当たり前のように聞こえて、実行するのは至難の業。

人の精神は、簡単に壊れる。簡単に壊れるのに、簡単には治らない。だからこそ「自分は自分の健康を第一に考えられているだろうか」「これは健康を犠牲にしてまでこなすべき仕事なのだろうか」「甘えや逃げと言う人が、私の健康を守ってくれるのか」「私の心身が壊れたときに責任を取ってくれるのか」と自分に問いかけてほしい。

あの逃亡劇は、会社にとっては迷惑極まりないだろうし、私にとっても人生で5本の指に入るほどの黒歴史。無断欠勤なんて今考えればご法度だし、もう少しやりようはあったと思う。

でも、あの休みは私にとっては間違いなく必要な時間だった。休職期間だってそう。休養室に籠ったのも、ビルの外へと駆けたのも。これが、私の生き方。レールの上をきれいに歩けなくたっていい。

私は、心身が健康な安定志向で生きてゆく。