“一般的”とは言い難い人生を送り続けている私にとって、“ふつう”という言葉は鬼門である。私自身はふつうに生きて暮らしているだけなのに、どうしてか一般的にみるとふつうから外れてしまうようだ。

恋愛できないと思っていたけど、私にも初めての「恋人」ができた

小学生の頃、強制わいせつに遭い、男性から性的に見られることが酷く気持ち悪くなった。“ふつう”の女の子のように誰かに恋をすることもなく、男友達からそれ以上の関係を求められたら縁を切っていた。かといって、女の子に惹かれるわけでもなかった。

そんな折、戸籍と身体が女性のトランスジェンダーの方と、ひょんなことから出会い交際することとなった。男性でも女性でもないその人に惹かれることは、“ふつう”の反応だと思った。

私にとって初めての恋人で、自分が求めていたパズルのピースがピタッとはまった気がした。後から考えると、それは恋ではなく興味から惹かれたのだが、交際していくうちに愛情が芽生えた。

最初友達には、恋人ができたと伝えた。性別の話はしなかった。この関係が友達にとっては、“ふつう”じゃないことだと思ったからだ。

しかし、親には1年の交際を経て、どうしても伝えたくなった。嘘をつき続けることと自分を隠すことが苦しく、外泊への不安も解消させたかった。

私に共感してくれなくていい。私にとって自然な選択肢が他人とは少し違っていて、そのなかで選択したことなんだと理解してもらえればいい。ふつうではないかもしれないけれど、「他者と幸せを分かち合いたい」「互いに愛情を注ぎたい」と思うことは、“ふつう”なことだから。

結果、親も上手く消化してくれた。同様に、数年掛けて友人にも“ふつう”ではない私の恋愛を話していくようになった。

はまったと思っていた「恋愛のピース」。実は置き間違えていた

その恋人とは7年以上交際を続け、同棲も経て挙式の話をしていたが、最終的に破局してしまった。婚約・結婚指輪を買った数週間後に。

その時、私は気がついた。私の心には愛情はあるが、恋愛感情はないのかもしれないと。とてつもなく悲しかったが、手放すことに対しては苦しくなかったからだ。薄々気がついていたが、“ふつう”の人が抱く好きな人に対するドキドキ・嫉妬・独占欲・執着心がほとんどないのである。

恋人は私とは真逆で、恋が愛情に変わることがない人だった。あるいは、恋を求め続ける人だったのかもしれない。私との関係性が愛情になったことが原因かはわからないが、新たな恋をした。その相手は男性だった。

はまったと思っていたピースは、実は上と下が逆で、最後のピースを埋めようとした時に、ようやく置き違えていたことに気がついたのだ。でも、これは置き間違えたからこそ気がつくことができた、私の大事なアイデンティティなのである。“アセクシャル”と言うらしい。また一歩、“ふつう”から遠ざかった気がした。

元恋人と別れて新たな「自分」に気づいた今、私には愛する人がいる

別れた話を聞きつけた男性から口説かれたり、出会いの場をセッティングされるのが苦痛だった。私は、恋ができない。そう額に入れ墨を彫りたい気持ちでいっぱいだった。

それでも、楽しく幸せに生きていきたいという“ふつう”の思いはある。もしかしたら、このまま独り身かもしれない。どうせ引っ越すのなら、一人でも生きていけるよう持ち家を持とう。面倒な誘い話もこなくなるだろう。中古のコンパクトマンションを買った。「もう余生だから」と周囲に笑って話していた。私には大好きな家族と友人がたくさんいて、皆と過ごせればそれだけで幸せだと。

そんな中、コロナ禍となり一人でいる時間が増えた。家族にも友人にも会えない日々が続いた。またしても気がついた。恋愛感情はないけれど、私には恋人という関係性の心の支えがずっとあったからこそ、こうして生きてこれたんじゃないかと。恋は出来ないけれど、恋人は欲しい。“ふつう”じゃない私の、“ふつう”な願いが生まれた。

紆余曲折あり、現在私には恋人がいる。彼氏である。車椅子で生活をしている。某パーフェクトなんちゃらのような感じである。とてつもなく強くてかっこいい人であり、その人柄を心から尊敬している。端的に言って愛している。

私は、また“ふつう”から遠ざかったのかもしれない。でも、男女の関係だから“ふつう”に近づいたのか? というか“ふつう”ってなんだ…?
私には“ふつう”が鬼門である。