「不器用だな」と職場の上司が笑いながら言った。「殺してやる」と言う代わりに私は「そうなんですよぉ」と笑った。
自分が「不器用」な人間であることに気が付いたのは、小学校の頃だった。
当時の私は図書委員会だった。あるとき先生が「来月の新刊ポスターの内容を放送して、全校生徒の皆に図書室に来てもらいましょう」と皆に言った。
図書室に訪れる生徒は少ない。本が好きな子が増えたら嬉しいな、と私も無邪気に笑っていた。「放送をお願いね」と先生が呼んだ二人の名前の内、一人が私の名前であることを知るまでは。
私は人前に出ることが怖かった。授業で当てられたときさえ緊張するのに全校生徒に向けてだなんて。もしかして先生は私のことが嫌いなのだろうか、と勝手にも先生に恨みを抱いた。
それでも当時の私はまだ、やる気に満ちていた。図書室にたくさん生徒を呼び込むために、立派な放送を務めてやろうという意思があった。
発表は翌日の給食時間。約二十四時間の間、私はずっと原稿を読んで練習を繰り返していた。緊張の汗で原稿用紙はふやけ、しわしわになった。
「無駄だったんだな」と思ったことを今でも時々思いだす
結果から言えば放送は散々だった。
放送室に行き、マイクのスイッチを入れた途端私は思ってしまった。
「全校生徒が見ている!」と。
勿論、本当に見られているわけじゃない。生徒達の大半は放送に耳を貸すこともしていなかったはずだ。
けれどマイクからわっと噴き出す圧倒的なプレッシャーは私には耐えられなかった。結局あれだけ練習したはずの声はちっとも喉から出てくることはなく、途切れ途切れのみっともない放送を学校中に響かせてしまった。
茫然として教室に戻った私に担任の先生は、「お前さぁ」と給食のパンを齧りながら笑って言った。
「全然練習してなかっただろ? あれくらい、普通に読めるようにしなよ」
あ、無駄だったんだな。
そう思ったことを、大人になった今でもたまに思い出す。
努力しても「不器用」で終わる。普通にさえなれない自分
社会人になってから、「普通以下」の人間だと思い知らされる。
上司の話をいくらメモしていくら復習しても、その場で腕組みをして話を聞いていた同僚の方がより良い出来の資料を提出する。
コップを慎重に洗い、あとは棚に戻すだけ、というところで肘をぶつけて落として割ってしまう。
些細なことが重なって、いつしか私は「不器用だ」と笑われるようになった。
私が私なりに努力しても「不器用」で終わり、決して「普通」にはなれない。
いつからか努力をすること自体が怖くなってしまった。
どれだけ努力しても「普通」にさえなれない子って、生きてる意味あるの? なんて泣きながら考えることも多々あった。
「普通」という言葉はよくも悪くも呪いの言葉だ。普通に縛られて苦しんでいる人もいれば、普通を望んで苦しんでいる人もいる。
他人が勝手に押し付ける意見や自分の中のハードルを「普通」と呼ぶだけ
だけど。そもそも「普通」って何?
私はこのエッセイのコメントを見て、ふと思った。
私が努力してもなれないと思っていた普通って、誰の基準?
普通はできる、普通はこんなことしない。思えばこれまで「普通」を伝えてくる人達は、自分の意見を、普通という言葉にして押し付けていただけだった。
確かに私は不器用だ。だけど、何もできないわけじゃない。
私が私に押し付けていた「普通」は、考えてみれば私の中にしか存在していなかった。
きっと皆が悩んでいる「普通」なんてどこにもない。
他人が勝手に押し付ける個人的な意見が、自分の中に勝手に生まれたハードルが、「普通」という言葉の殻をかぶって誤魔化しているだけなんだ。
そう思うと少し気が楽になる。
努力をはじめる一歩目は怖いけれど。それでも諦めないで、少しずつまた努力をしていこう。
いつか自分の中の「普通」を飛び越えて、私が一番納得のできる私になれるまでは、頑張ろうと思う。