港町に住んでいる人ならあるあるだと思うのだけれど、たまに道端に魚が落ちている。え、ない?うちの周辺だけ?トラックに積んだ魚を落としてしまうおっちょこちょいな漁師さんがいるのだ。

怖くて目が逸らせなかった。足が痺れるまで、魚に群がる蛆を見ていた

私は小学生のとき通学路で、前述の落ちた魚をたびたび目にした。魚は平気で1ヶ月くらい道に放置されたまま。暖かい時期には数日で蛆が湧いて魚が食い荒らされていく。魚の腹の中でぞわぞわと蠢く虫を見たい人は少ないだろう。友達はみんな目を逸らして先を歩いた。

私はというと、しゃがみこんで足が痺れるまでその光景を見つめ続けた。怖くて目が逸らせなかったのだ。習ったばかりの「食物連鎖」という単語が急にリアルに迫ってくる。毎日、毎日、魚が骨になるまで観察を続けた。気付くと消えていた蛆虫たちは大人になれたのだろうか。それから私は暫くの間、家に入ってきたハエを殺せなかった。

神さまがいるとしたら、こんなふうに人間を見下ろしてるんじゃないかと想像した。俯瞰的に、ある意味で無慈悲。あの日の私は、まるで社会の厳しさや理不尽を味わったかのような表情をしていたと思う。

性教育は学校よりも先に生き物から学んだ。飼育中のカブトムシが夜な夜な交尾しているのを夢中で眺めるような子供だったから、親も気が気じゃなかったはずだ。

不幸にも人間に飲み込まれ、生をまっとう出来ないアニサキスが不憫で

その延長線で、私は寄生虫にまで興味を抱くようになった。寄生虫という言葉に何を連想するだろう、気持ち悪い?危ない?いずれにせよネガティブなことが多いかもしれない。

たとえばよく聞くアニサキス。鯖やアジなどにくっついた彼らを、私たちが飲み込んでしまうことで猛烈な痛みや吐き気に襲われる。果たして彼らは悪か。

実は寄生虫って、正しい宿主とは良好な関係を築くこともある。宿主を殺してしまったら自分も死んでしまうから運命共同体とも言える。アニサキスは最終宿主のクジラの体内でいっちょまえの大人になる。一方のクジラも、腹の中に"虫の家族"を抱えながら悠然と海を泳ぎまわる。

不幸にも人間に飲み込まれ、ここはどこ!?どこやねん!?と胃袋に突進し、生をまっとう出来ずに死んでしまうアニサキスの方が不憫ではなかろうか。まあ、こんなこと私も友人に話したりしない。白い目で見られること必至だ。

怖いもの、気持ち悪いものが、私たちの住む世界にはびこっている。寄生虫擁護の弁を立てたが、虫を通した恐ろしい病気がままあるのも真実だ。どうやら私は安全だと鷹を括ってのうのうと生きているけれど、食うか食われるかの世界に身を置いていたらしい。

私はそのヒリヒリとした感覚を実感したいのかもしれない。或いは、生命を繋ぐことに全身全霊をかけ、迷いのない彼らに羨望を募らせているのか。そのどちらもだろう。

生きものだから。私たちは当然のように生命の奪い合いをして、生きる

今年の春は珍しくニホンミツバチの分蜂を見ることができた。新天地を求めて、およそ数千匹の蜂が団体様で移動する。その姿は灯りを放つ恒星が集まって生まれた銀河のようだ。

生きものって、怖くて、気持ち悪くて、美しい。

話しは変わるけれど、皆さんはクジラやイルカを食べる文化をどのように思いますか?かわいそう?うん、その気持ちも分かるな。可愛くて可哀想。

じゃあスーパーに並ぶ豚や鶏、牛のパックを見て可哀想だと思う?屠殺される動物をどう思う?野菜や果物を食べることについてはどう思う?私はあまり考えたことがないほど、当たり前に口へ運んでいる。

当然のように生命の奪い合いをして、私たちは生きている。だって生きものだから。私たち人間も、怖くて、気持ち悪くて、美しい生きものなのかもしれない。