この世の何よりも、美しい女性を愛している。
肉親から絵画に描かれた貴婦人まで、前面に放たれているその精神性の輝きに心底惹かれてしまうのである。

ハツラツとした彼女に、煌めく瞳の彼女 私の周りの魅力的な女性たち

とある講演会で登壇者の一人だった中江有里さんはスポットライトの下で、おおよそこう言った。
「私はシスターフッドを信じます。手と手をとりあいましょう。今こそ女性の連帯が必要なのです。」
「シスターフッド」とは「女性どうしの結びつき」という意味らしい。女性の権利問題に対抗するための絆という文脈で用いられることも多く、「女縁」といって近現代社会における新しいネットワークとして説明されることもある。
あなたが差し伸べてくれた手を、私は握り返したい。

魅力的な女性について語りだすと止まらない。これこそ愛だ。
例えば斜め前のデスクのあの人。面倒な仕事だって笑顔で完璧にこなし、颯爽と定時で終える。他方、セーラー服姿が記憶に新しい彼女は、新しい苗字となってますますハツラツさが増したよう。そしてまた夢を語る研究者仲間の少女のような目は、宇宙のどの星よりも煌めいている。

誰もがみんな等しく美しく、私はそれを言葉にできる自信だってある。
それなのにどうして女性どうしでの諍いは起こってしまうのだろう。

「敵」だと錯覚して攻撃 それじゃあ誰も幸せにならないのに

自分の経験を思い返すと、あくまで私感なのだけれど、二人以上女性が集まるとかなりの確率でトラブルが起こる。
女性に限ったことではないかもしれないけれど、男性だと嫌いな人はそもそも関わらずに受け流しているような気がする。

女性の場合はそうもいかない。良くも悪くも当事者意識が高く、されたことの意味を自分に求める傾向が強い。度合いもあるけれど心配性であるという特徴は、それは子を産んで育てる母性本能として必要なものなのだと思う。だってどんな小さなリスクからも子どもを守らなければならないのだから。
だから例えもしどんなに疎遠になっても、うっかりすれ違いざまの挨拶を忘れようものならそれまでは気にも留めていなかった人間が一気に「敵」に格下げされてしまうこともある。存在を無視されたと錯覚してしまい、その状況を打開するために加害者を排除したくなる。愛の反対は無関心であってほしいけれど、どうしても敵か味方か白黒させたいようで。

個人のみでの生き残りが前提ならば、その自己防衛本能が強さからくるものとして潜在的に備わっているものは高いとは思うのだけれど。
一人でできることは限られているのだから、几帳面な線引きよりも境界線をなくそうとする人が増えれば、囲いはどんどんなくなってみんなが幸せになるはずなのに。それって安直な感情論なのかしら。

小さな甥と姪の未来を優しく温める そのためのシスターフッド

新しい時代の名前を教えてくれるように、美しい姪が生まれた。
不穏な一年を締めくくるのは、希望に満ちた甥の誕生だ。
たまたま二人は違う生物学上の性に生まれた。

女と男、お互いの活躍のために必要なのは、この便宜的な区別を受け止めて相手の立場を想像しながら助け合おうとすることだって信じている。そのためににもまずは女と女で助け合いたい。そんな強い思いをバトンリレーしてこれからの子どもたちに伝えていきたいのです。

こんな思考に導いてくれるきっかけは、やはり美しい女神たちである。

私はこれからだってその崇高な存在を愛してやまない。
そして光が生む光、つまり彼女たちがつなぐ未来であるリトルミス&ミスターが幸せな世界のために、私に何ができるのか。
重ね合わせた手のぬくもりが、明日の世界をも優しく温めんことを。