大好きな友人がいる。
彼女はとても優しい。
どのくらい優しいかというと、彼女の優しさがあれば生きていけるだろうなと思うくらい優しい。

心身のバランスを崩したとき、不器用ながらいつも優しさをくれる彼女

私が心身のバランスを崩したとき、彼女は一緒にご飯やお茶に行ってくれる。
でも、その場で何か特別な言葉を私に語りかけるでもなく他愛もない話をして、去り際には「元気でね」とさらりと言う。
「元気でね」という、そっけなくも感じる言葉を言う彼女の顔は「上手いこと言えんなぁ」という表情で、可愛くて笑ってしまう。
案の定そんなときは、後からチャットで素敵な言葉を送ってくれる。彼女がくれる言葉は、いつも私の傷口にぴたっとはまるから不思議だ。
その不器用な優しさの、何と愛情の深いことよ。

またある時は、失恋した私を連れて傷心旅行へ行ってくれる。
うじうじと恋心を持て余す私に、「あれ、自分を傷つけてまで恋するほどの相手ではなかったのでは?」と我に返るきっかけを与えてくれるのは、いつも彼女だ。
そのきっかけとなる言葉はいつも鋭い。でもその鋭さが優しい。
今では彼女と一緒に行った場所や思い出は覚えているのに、誰との失恋だったかは忘れているくらい自分を取り戻している。

そんな彼女の優しさを感じたとき、私は心の底から生きようと思い直す。
もし私がつらさに押しつぶされて、彼女の優しささえ受け取れずに死んでしまったら、彼女は不器用に悲しむのだろう。
周りには分からないくらい不器用に、でも深く深く彼女は悲しむのだろう。
そう思うと、ああ、私は生きなければ、と思う。

分かりにくい彼女の深い優しさは、私の生きる支えになっている

ただ、彼女の優しさは分かりにくい。
口下手で、不器用で、物事をはっきり言う彼女は、人間関係がうまくいかないと悩んでいる。私にとっては誰よりも優しい彼女が悩んでいる。
彼女の優しさを理解するには、世の中のスピードが速すぎる。そして、分かりやすさが求められすぎる。
分かりやすさが素早く求められる今の世の中では、喫茶店で悩みを打ち明けた私に優しい言葉を語りかけ、別れ際に元気の出る言葉を言える人が「優しい」のだろう。
私が死んでしまったときに、大声をあげて泣き、SNSに追悼の言葉を投稿できる人が「優しい」のだろう。
だから彼女はきっと理解されにくいのだ。
分かりやすい優しさが必要な人もいる。
でも、そうではない彼女の優しさが、私にとっては生きる支えになるほど深い優しさなのだ。

そんな不器用な優しさを持つ彼女が、とびきり幸せになってほしいと願う。
彼女の優しさを理解する人に囲まれ、朗らかに笑っていてほしいと思う。
そう願う私の優しさや愛情もきっと人からは分かりにくい。
分かりにくいだろうけれど、いつも心から願っている。
だからこれからも、ふたりで下手くそなスキップみたいに不器用な優しさを持ち寄りながら、日々を楽しんでいきたい。