乗ってしまった社会のレールは、案外速くわたしを運んでいたらしい。
「じゃあお前、来月から正社員な」
コロナ禍なので試用期間は長く取ります。もしかすると半年ぐらい。入社時に言われた期間の半分もいかない、二ヶ月と半分たったときだった。理由は「真面目に働いてるから、期待も込めて」。
喜ぶべきか、意気込むべきか。ポジティブな二択を迫られたわたしは情けない顔をした。
「……わたしで本当に良いんでしょうか」

「誰でも出来ること」しかできない自分に、劣等感を抱いていた

売り手市場に中指を立て、就職活動延長戦。半年の浪人の末、9月に入った会社だった。
半年間で得たものは、ひとつの内定とその何十倍もある不合格通知。あと、「自分は軽く引くほど要領が悪い」という実感。もっと言うと、二択まで絞った問題を間違えるタイプの、すべて裏目に出る人間だという悲観だった。
良かれと思ってやったことは、大抵ありがた迷惑になる。逆もまたしかり。わたしの投げるコインはいつだって裏だ。半年間で自尊心はゴリッゴリに削られた。

社会人になってから、わたしは3つのことを徹底している。「時間には絶対遅れない」「言われたことを真面目にやる」。そして、「言われていないことはやらない」。
これがなかなか難しい。世の中の言葉は全て自分ではない誰かが発しているし、拡大解釈と縮小解釈があるからだ。ここの塩梅に失敗しまくったと自覚していたし、実際「自分で考えて動け」とも「勝手に動くな」とも叱られた。
人に指示された「誰でも出来ること」しか満足にできない自分に、いつもいつも劣等感を抱いていた。

チームのために走れるのは十分に美徳じゃないんだろうか

少し趣味の話をしよう。サッカーの話だ。
贔屓のチームの好きな選手が、昨季はやたらとSNSで批判されていた。攻守によく走るのが売りの左サイドバックだが、彼らはそれを「無駄走り」と呼んだ。
走ってるだけでアイデアや技術がない。もう彼では限界。論理の形をとっている分だけ説得力があって、見ているこっちもきつかった。

無駄、ねぇ。わたしは思ってしまう。たとえ無駄走りだとしても、チームのために走れるのは十分に美徳じゃないんだろうか。
世の中合理的になったし、サッカーの戦術もどんどんシステマチックになっていくけれど、それだけではない貢献もあるように思えて仕方ないのだ。

わたしはサッカーでいう「無駄走り」を続けていくしかないのだ

正社員になってみて、気づいたことがひとつある。

「誰でも出来ること」は、「誰でもやってること」じゃない。

時間を守るとか、言われたことを丁寧にやるとか。正社員登用は、その「誰でも出来ること」を真面目にこなしてきたことが評価されたのだと今ならわかる。
就職浪人で削られた自尊心のせいでなかなか素直に喜べないけれど、わたしは結局、サッカーでいう「無駄走り」を続けていくしかないのだ。たとえ世間や同僚から、どんなに叩かれたとしても。

真面目はつらい。社会に割を食うことはあっても、基本的に得はしない。みんなそれを「当たり前」だと思っている。
でもわたしは、少なくとも「誰でも出来る」走ることを愚直にこなす、好きな選手に恥じない生き方はしたい。
「誰でも出来ること」を「ただただ真面目に」こなす、それがわたしの2021年の抱負だ。