最近認識されるようになった“繊細さん”という言葉。
HSPという人の性格は世間でも話題になり、それを機に自分の感性が人と少しずれていることを知った。

その中でも、最も生きづらさを感じてしまうのが、“周囲の人々の感情の動き”。これが私の感性だ。

私は視界に入った「人の感情」をキャッチしてしまい気にしてしまう

あまりに気になり、友人に相談したこともあったが「え、どういうこと?」「何がわかるの?」「気にしすぎだよ」と、全く考えたこともなかったようなリアクションを受けた。この時に初めて感じたのが、普通は周りなんて気にならないんだという事実だった。

私が感じ取っているのは、焦りや不安、不満、喜び、楽しさ、寂しさなど全ての感情と会話。感じ取った感情があっているかは定かではないが「あぁ、あの人不機嫌そうだなぁ」とか「急いでるのかな、すごく焦っている」とか視界に入った人の感情をすぐにキャッチしようとし、自分も一緒にその感情を感じる。

人と関わると、人間観察を無意識にしてしまうのだ。こういった言い方をしてしまうと嫌な感性のようだが、私はこれを大変だと思ったことはない。

思いやりがない…?だから、「もっと周りに目を向けて欲しい」

確かに、人よりも心を使うため疲れやすくはなる。だが、常に視野を広く持つ癖は勝手に身についているし、入ってくる大量の情報を処理することも苦に感じない。他にも感情の変化に気づきやすいからこそできる仕事もあるし、コミュニケーションの取り方もある。仕事でもプライベートでも、周りを見る力は必要だなと感じている。

「だからなに?」ですよね。私が今回伝えたいのは「もっと周りに目を向けて欲しい」ということ。私が気づき過ぎるだけなのか、周りが気づかな過ぎるのか。わからないけど、“思いやり”がないなと感じる光景をよく目にする。

スマホばかり見て、誰かがやってくれるだろうという姿勢。まるで当たってきた方が悪いかのような態度。「すみません」の一言で済むのに、大声で喧嘩するいい大人。私は思いやりや周りが見えていない行動が、特に気になってしまう。

先日見たのは、エレベーターのボタンを押さないでスマホを触りながら並ぶ列。みんなでこないエレベーターを待っている様子は、まさしく現代!と感じる不思議な光景でした。リプの速さが大切なのはわかるが、それに必死で周りが見えなくなるのは、いかがなものか。

全ての人が「自由」に生きられる日はそう遠くない気がしている

自分中心の日々で、この街にはたくさんの人がいるということを忘れてしまっていないだろうか。自分の行動で、誰かに影響が及ぶかもしれないと考えているだろうか、少し周りを見たら気づくことはないだろうか。「周りを見る思いやりの気持ちを持つことは、そんなにも大変なのだろうか?」と疑問に感じてしまうことが最近多過ぎる。

私は誰かの行動で、誰かが嫌な気持ちになるさまを見て嫌な気持ちになる。その流れになんの意味があるのだろうか。

繊細さんへの理解は広がっているが、まだまだ生きづらいと感じることが多い。少数が我慢するのか、多数が合わせるのか、全ての人が自由に生きられる日はそう遠くない気がしている。

今はせめて「自分の視界に入る人は笑顔でいてほしい」