東京の大学を卒業して社会人1~3年目の間、私はインドの首都ニューデリーの日系企業で働いていた。と言っても駐在員としてではなく、現地採用だ。

もちろん自宅も、各国の駐在員や上流階級が住むいわゆる高級住宅街ではなく、そこから大通りを1本挟んだLajpat Nagar (ラジパットナガール)、インド人中流階級の住む大規模市場を中心に広がる地帯にあった。
オールドデリー近くのオフィス(最寄り駅はNew Delhi駅と紛らわしい)への通勤は、デリーメトロ(地下鉄)を利用、Lajpat Nagar駅からNew Delhi駅まで片道Rs. 14、日本円で約25円だった。寝坊した日はオート(3輪タクシー)、前日の飲み会で起きるのがやっとの朝はOla taxi(インドのウーバー)で約200円で通っていた。ドライバー付きの専用車は、私たち現地採用にはなかった。

Lajpat Nagarのアパートからメトロ駅まで徒歩8分。約750mの道は日本のように平坦ではない。
自宅を出た門の目の前で何匹もの野良犬が寝ている。道路はゴミを集めて回る仕事人が来る前のため、食べ残しやプラスチック容器、動物の排泄物で散乱状態。屋外で洗濯をする女性たち。自転車の新聞配達員が、地上5階のベランダに丸めた新聞を投げ入れる巧妙な技を繰り広げている。
午前7時半のラジパットはもうカオスだ。目を開けているだけで見たくないものまで飛び込んでくる。

それぞれの1日が待っている、チャイスタンドで過ごす朝の5分

それでも、私にはこの土地で美しさを感じていた5分があった。
7:30-35amの5分間、メトロ駅近くのチャイスタンドで過ごした時間だ。
大きな鍋に茶葉、ミルク、カルダモン、生姜、砂糖を入れて煮たインド式ミルクティー専門店。専門店と言っても台車の上で営む露店だが。値段はRs. 5 (日本円で10円程)で、直径3cm 高さ4cm程のテキーラショットグラスと同じくらいの紙カップに熱々を注いてもらう。
チャイワラと呼ばれる店員は英語は話さないが、5ルピーのコインを渡すだけでいい。無表情でチャイを作ることだけに集中している彼らから当然のように受け取る。

そのチャイスタンドにはいつも数人がチャイを片手にそれぞれの数分を過ごしていた。ある日はリキシャワラ(3輪自転車のドライバー)、ある日はオートワラ、またある日はマーケットの店員だった。
そして私は、彼らと互いに干渉せずに自分に注いでもらったチャイを飲んでいる時、「ああ、美しい。この時間だけは誰もが一緒の時を生きているんだ」と思った。
普段はリキシャワラやオートワラと数十円の値段交渉で喧嘩しているし、マーケットの店員にも値下げ交渉で散々怒っているのに、この瞬間だけは平等で平和だった。
私にはニューデリー駅のオフィスで勤務する1日が、リキシャワラにはお客を乗せて走り回る1日が、マーケット店員には商品を売る1日が待っているというのに。

家では再現ができない、インドの空気と朝のチャイの味

全然違うのに、同じ。
数十センチ先で同じチャイを片手にしている人物の名前も知らなければ、その人の家庭環境もバックグラウンドも今考えていることも何も知らない。だけど、5ルピーのチャイを同じ時間に飲んでいるという事実だけがそこにあって、時間が誰しもに平等に流れているという当たり前の真実を知ることができる。

高校時代にもインドに住んで、この国の数え切れないほどの問題やショックを受けるような光景、それらを解決出来ないどうしようもない無力さも感じてきた。また、この大国の素晴らしい文化や歴史的建造物、雄大な自然も少なからず見てきた。
だけど、夏なら50度近い猛烈な暑さが訪れる前の、冬なら冷たくてスモッグで覆われたデリーの空気に触れながら、彼らと過ごす時間が好きだった。
何度家で再現しようとしてもできない味がそこにはあった。

物理的には誰が見ても美しいとは言えないけれど、私にとっての美しさは違う。
「美しさ」とは、全く知らない誰かにも、自分と同じ時間が流れていることを感じるその瞬間である。そう感じることによって、私たちに平等に与えられた時間の尊さを改めて実感することができるのだ。
断然出かける直前まで寝ていたいタイプだけど、何故か5分だけ早く起きて、1日の始まりをチャイスタンドで過ごしてから、7:38amのメトロに乗ろうと決める自分が確かにいた。